資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

ド・ブロイの異脳狩人/Take1-0


(キャッチコピー)

好きでもない男たちに、かわるがわる殺される。



(紹介文)


 《|廣汎化《ユニヴァリゼイション》》の波が全地球を飲みこんで、もう半世紀になる。人類の進化と社会組織の理想化を謳った叡智の播種は、結局のところ、新世代の|汚穢《おわい》という果実のみを後に遺した。

 テクノロジィが創ってしまった、ヒトにしてヒトならざるもの。
 ヒトの中の怪物性の解放。現代に潜む邪悪の化身。あらゆる神話と魔法が遠い過去のものとなった時代に、突如具現化したファンタジィの住人たち。

 《異脳》。

 《《それ》》は誰にでも潜んでいる。
 欲望、不合理、自分さえ良ければ他のものなど知ったことかというきもち。
 その他もろもろの悪徳が、ヒトをヒトの殻から解き放つ。

 つまり――あらゆる街角にモンスターが棲んでいる時代がやってきた、っていうことだ。



 時は、AE56年。
 天は“王朝”に支配され、地には《異脳》どもが溢れ、凡人たちは絶望の中、辛うじて生にしがみついていた。

 そんな混迷の時代に、どこからともなく湧き出した戦士たちがいた。
 称賛も受けず、寄る辺さえ持たず、銃と、カタナと、安売りの命とを武器にして、《異脳》を闇から引きずり出しては、ただひたすらに屠りつづける、返り血に汚れたハンターたち。
 人は彼らをこう呼んだ。

 ――ド・ブロイの異脳狩人と。







0 異脳狩人


 追い詰められたK.K.は、手頃なコンクリート片を引っ掴む道を選んだ。女の子《《らしく》》震えて死を待つなんて、思いつきもしなかったのだ。
 ここは|積層都市構造物群《レイヤード》|最下層《ローアモースト》デルタ・ブロック、通称“スクラップ通り”の市内線駅。全ての|列車《ハコ》が緊急停止し、利用者も駅員も逃げ出してしまった無人のプラットホームには、今や息のつまるような静寂ばかりが残されている。その最も隅の、最も目立たない柱の陰で、K.K.は最前から、じっと息を潜めている。
 隣では、K.K.より4、5歳は幼いであろう、10歳かそこらの少年が、必死に哭くのを堪えようとしている。K.K.と関わりのある子ではない、単にたまたま駅で近くにいただけの他人だ。しかし、連れて逃げずにはいられなかった。
 彼と一緒にいた母親は、《マクローリン|獣《けもの》》に叩き潰されて、死んだ。よく熟れた|紫外《UV》フルーツが弾けるようにだ。
 K.K.は、己の不運を呪わずにはいられなかった。
 確かに、|最下層《このあたり》には、かなり《《多い》》と聞いていた。だが、まさか初めて足を踏み入れたその日に、いきなり《《やつ》》と出くわすなんて――
 ――と。
『明るく前向きであれ!』
 |紫外《UV》フルーツの破裂音。
 K.K.は固く目を瞑り、体中の筋肉を引きつりそうなほどに強張らせ、恐怖を奥歯で噛み締めた。
『ひとつ! 笑顔で対応! ひとつ! 常に明るくプラス思考!』
 くぐもった《マクローリン|獣《けもの》》の声が響くたび、液体がぶちまけられる不愉快な音がそれに続いてプラットホームを駆け巡った。耳ざわりのいいお題目とともに繰り出される地獄のような暴力。K.K.たちと同じようにどこかに隠れていたであろう被害者が、今どんな目に遭っているのか――うっかり詳細に想像してしまい、猛烈なストレスのために胃液が喉まで逆流してきた。
 K.K.はコンクリ片を腿のそばまで引き寄せた。人工岩石の重みと冷たさが足に伝わり、ギリギリのところで恐慌と嘔吐を食い止めてくれた。
 瞼を開く。震える少年の背中が視界に入る。
 すると不思議なことに、K.K.の恐怖が、閉店時間を迎えた|飲食店《ダイナー》の照明めいて静かに引いていき、そのうちに消えてしまった。後に残ったのは、奇妙に落ち着いた心持ちだけだ。
 戦力どころか足手まといでしかない怯えた子供が、どうしてこうまで彼女を宥めてくれたのか、それは全く分からないが。
『明るく……前向きで……』
 《マクローリン|獣《けもの》》の声がようやく止み、代わりに、重い足音が聞こえだす。
 向かってきている、こちらに。間違いない。
 死は時間の問題だ。
 K.K.は柱から身体をはみ出さないよう気を付けながら、少年の肩に手を載せた。彼が涙目をこちらに送る。K.K.は自分でも驚くほど優しく余裕のある笑顔をして見せ、声には出さず、唇の動きだけで言葉を伝えた。
「だいじょうぶ。私が守ってあげるからね」
 そして、固くコンクリ片を握る。
 途端、闘志が湧いてきた。
 雄叫びあげてK.K.は飛び出す。《マクローリン|獣《けもの》》の脳天に、両手で振り上げたコンクリートを力任せに叩き込む。
 頭蓋の割れる音がして、《獣》の巨体が床に這いつくばった。
 やった! と思うと同時に、生物的で根源的な言いようもない恐怖が再びK.K.の内臓を掻き乱した。そうなるだけのおぞましさを、《マクローリン|獣《けもの》》は持っていたのだ。
 やつの姿は、辛うじてヒトであったころの痕跡を残している。少なくとも顔や手のひらは人間のそれだ。しかし体長は実に5メートル余り。《獣》そのものの仕草で四つん這いになり、背骨を猫のごとく醜く丸め、椎骨の突起を青ざめた肌の下に浮き上がらせているのだ。先ほどまで――本性を現すまで――着ていたスーツ一式はとうに弾け飛んでいたが、異様に細長い首に、洒落た柄のネクタイだけが頼りなくぶら下がっている。
 その首が呻き声と共にもたげられ、憤怒も憎悪もない、気色悪いまでに虚ろな双眸がK.K.を捉える。
 今の一撃が効かなかったわけではあるまいが、あの程度で殺せるほど《獣》はかわいいものではないということだ。
 だが、そんなことは|端《ハナ》から分かっている。
「こっちだ! 来いッ!」
 雄々しく叫んでK.K.は駆け出した。《獣》の脇をすり抜けプラットホームの入口へ。《マクローリン|獣《けもの》》が、何かわけのわからない鳴き声をあげるのが背後に聞こえた――
『悪いのは|顧客《クライアント》ではない! 大きな声であいさつ!!』
 その声のうきうきと弾んだことといったら、まるでクリスマスプレゼントを得た子供のよう。
 《獣》の四肢が蟲めいて蠢く。異様な巨体が、猛然とK.K.を追い始めた。その姿をちらりと後ろ目に捉え、K.K.は通路を折れて地上への階段に飛び込んだ。
(そうだ。来い。あの子に気付かないくらい、夢中で私について来い!)

 アルミニウムの手すりを|拉《ひし》ぎ、改札のバリケードを蹴散らし、鉄筋コンクリートの列柱をすら粉砕して、《マクローリン|獣《けもの》》が追ってくる。K.K.は走る。力の限り走る。広い空中通路に飛び出し、今や障害物でしかないベンチを踏み越え、傷だらけのアクリル製ドアに飛びついて。
〔いらっしゃいませ〕
 完全に自動化されたゲートが呑気に歓迎の言葉を述べながらモタモタと開いていく。K.K.は細い体を横にして狭い隙間に捻じ込んだ。すぐさま走る。後ろでまたゲートがしゃべりだす。
〔いらっしゃ……〕
 ぶ厚いアクリル板の粉砕される音がそれに続いて、それっきりゲートは沈黙した。
 泣きたい。泣いて立ち止まってしまいたい。
 K.K.を突き動かした勇ましい義侠心はいつのまにか消え失せ、今は猛烈な後悔だけが残っている。放っておけばよかった。じっと隠れていればよかった。あんな恐ろしいモンスターに、立ち向かおうなんて馬鹿だった。ましてや――見ず知らずの子供を助けるために自分が犠牲になろうなんて。
 映画なら、そろそろハンサムな|騎士《ナイト》さまが助けに来てくれる頃合いだ。他の惑星から飛来した正義の|超能力《スーパーパワー》マンか、差別に苦しみながらそれでも戦う|変異種《ミュータント》戦士か、さもなくば|巨大機械《メガ・ロボット》兵器に乗った思春期の少年か、そんなものが結局ヒロインを助けてくれる。
 だがそんなこと、あるわけない。なぜならこれは《《現実》》だ。
 一足ごとに恐怖がつのる。息は上がり、足は棒になり、身体と精神の限界が近づいてくる。止まりたい。休みたい。座り込んで、寝転がって、もう何もかもどうでもいいと、無責任に投げ出してしまいたい。
 なのに、厳然たる未来予測が立ち止まることを許してくれない。
 止まれば――死ぬ!
 涙を目尻に溜めたまま、闇雲に走り回り、駅ビルのショッピング・モールに駆け込んだところで、ついにK.K.の精神は臨界を超えた。映画の中でさえ見たことのない恐るべき光景が、何の心構えもできていない彼女の目に突如飛び込んできたのだ。
 広い食品売り場一面の、壁という壁、床という床、あらゆる商品棚とプラスティック・パックの上に、叩き付けられ、へばりつき、赤黒い滴を今でも垂らし続けている――死体の、山。
 肉という肉が内側から弾けたように飛散して、潰れた脳と、原形をとどめたままの指が、絡まり合いながら壁紙になっている。飲料水のボトルには腕が何本か紛れていたし、床は、もともと何の部位だったのかも分からないようなグチャグチャしたものに覆い尽くされていた。なのに、そうした赤一色の景色の中に、無数の眼球だけが浮き上がるような白さで点在しているのだ。
 ふと横手を見ると、キンピラ・ゴボウのパウチ・パックが整然と並ぶ上に、頭蓋から剥がれ落ちた人の顔面が貼り付いていて、驚き顔のそいつと、目が合った。
 脚が止まった。
 呆然と、ただ呆然と、K.K.はそのありさまを、とりわけ、キンピラ・ゴボウの上の顔面を見つめ続けた。気持ち悪い。吐きそう。怖い。自分の身体と心には確かに異変が起きていたが、K.K.はそれを妙に冷静に、他人事のように観察していた。
(本当に怖いと、人間ってこうなるのか)
 糸が切れた人形のように力が抜けて、血に濡れた床に尻餅をつく。
 すると、なぜか、笑い声が零れた。面白いことなんて、何もないのに。
「うふっ……」
 もう、走ることは、できない。
 背後で物音がした。K.K.がへたりこんだまま首だけをそちらに向けると、《マクローリン|獣《けもの》》が、長い首を食品売り場のゲートからニュッと差し込んできて、『やあ』というみたいな、気さくな笑顔をこちらに向けた。
『笑顔で対応』
 K.K.は、そこで確認した。
(そっか。私、死ぬんだ)
 そして、《|獣《けもの》》が少女を引き裂く。

 ――そのはずだった。
 ふとK.K.は我に返り、おかしいな、と思った。なぜ死んでいないのだろう? 身体も全然痛くない、走りすぎでヒリつく気管を除いては。数秒の間、思考とも呼べない曖昧な電気シナプスの活動を続けたあと、ようやく彼女は自分がずっと床を見つめ続けていたことに気付き、さっきものすごい音が聞こえたことを思い出し、視線を持ち上げてみることにした。
 ゆったりと弧を描く、長身の女の背中がそこにあった。
 荒れたボロボロの黒髪。得体の知れない腐臭が染み付いたコート。左には黒光りするカタナの鞘、右には拳銃のホルスター。腰の後ろに横差しに差された大振りのコンバット・ナイフ。腿のスロットには何かの液体が満ちた|薬剤瓶《アンプル》。右手にぶら下げられた抜き身の大刀は艶めかしいまでの輝きを見せ、左手では、銃身切り詰めたショット・ガンが、白い煙をゆったりと吐いている……
 K.K.は馬鹿みたいに口をポカンと開け、女の背中と、その向こうでのたうち回る《マクローリン|獣《けもの》》の姿を交互に見やり、間抜けた声で呆然と呟く。
「……|騎士《ナイト》さま?」
 しかし女は、ハ、と小さく鼻で笑い、
「違うね」
 片手で器用にショット・ガンを|再装填《リロード》し。
「ただの害虫駆除業者さ」

 |騎士《ナイト》が奔る。肉迫までミリ秒。呻く《|獣《けもの》》の顔面を太刀で横薙ぎに薙ぎ払い、悲鳴を上げる《《それ》》の鼻先に|零《ゼロ》距離からの|4番弾《フォアゲイジ》を叩き込む。
 轟音。白煙。跡形もなく消し飛ぶ顔面、辛うじて残る下顎と不揃いの歯。
 《マクローリン|獣《けもの》》の絶叫が止まり、しかしその身体は脳を失ってなお反撃のために動き出す。横手から風を唸らせ剛腕が襲い掛かる。だが頭を潰した程度で《《やつら》》が止まらないのは想定済み。
 |騎士《ナイト》は身体をかがめて紙一重に拳をかわし、伸び上がりざまの一撃で《|獣《けもの》》の腕を斬り飛ばす。痛みにのけぞる敵の懐に我から飛び込み太刀を振るい、腹を横一文字に両断するや流れるように脚の下から滑り出る。一瞬遅れて《|獣《けもの》》の巨体が床に突っ伏せ、その背骨を、大上段に振り下ろされた白銀の刃が叩き割る。
 噴水のごとく噴き上がった血飛沫が、|騎士《ナイト》のミラーグラス・ゴーグルを斜めに汚した。
 K.K.は――ただ、その戦いに見惚れていた。
 生まれて初めて見る本物の戦い――《《殺しあい》》。
「きれい……」
 K.K.の場違いな感想は彼女に届いていたのだろうか? |騎士《ナイト》が《|獣《けもの》》の背中を踏みつけ、めり込んだ刀身を力任せに引き抜きながら、錆びた鉄扉の軋みを思わせる重低音で警告する。ミラーグラスと返り血のために視線は読めない。
「下がっていろ」
「えっ?」
「まだ終わりじゃない」
 と。
 彼女の言葉を証明するかのように、《|獣《けもの》》が動いた。
 尻の肉が突如として蠢き、盛り上がり、太い尾が間欠泉めいて素早く《《生えてくる》》。いや違う、尻尾ではない。伸び上がった肉塊の先には鰐に似た大顎と牙が造形されている。
 ――ふたつめの頭!
 と凍り付くK.K.の目の前で《マクローリン|獣《けもの》》が跳ね上がり、|騎士《ナイト》を軽々と弾き飛ばした。いつのまにか《|獣《けもの》》の腹の下には《《5本の脚》》が、それも関節の異様に多い滅茶苦茶にねじくれた脚が生えていて、それが一斉に|発条《バネ》のごとく伸び上がったのだ。
 さらに、銃撃で吹き飛んだひとつめの頭が蛇のようにうねりながら再生する。その表面の肉を突き破って無数の歯が生え出し、棘に覆われた巨大な鞭となって、空中の|騎士《ナイト》に襲い掛かった。
 宙に投げ出され、走ることも跳ぶこともできない|騎士《ナイト》は、その重打をまともに受けた。骨の軋む強烈に不快な音がそこらじゅうに響き渡り、思わずK.K.は息を呑む。|騎士《ナイト》の身体が床に弾み、そこに《|獣《けもの》》が飛び掛かり、次々振り下ろされる踏みつけの中、|騎士《ナイト》は転げるように逃げ回る。
『ひドつ! 明るる前向きだれれ! 大きなあいさ! 声!』
 《|獣《けもの》》が新しい口で、もはや人語の|態《てい》を保てなくなった雄叫びをあげる。異形の巨体を引きずり、楽しそうに|騎士《ナイト》を追い詰めていく。一方の|騎士《ナイト》は傷ついた血塗れの身体でふらつきながら後退し、ついには壁に背をついた。
 大顎が矢のように唾液を迸らせ、|騎士《ナイト》の胴を咬み砕く――その直前。
 |騎士《ナイト》の身体が忽然と消えた。《|獣《けもの》》の牙は空しく宙を咬み、勢い余って鼻先をコンクリートの壁で叩き割る。遠くから見ていたK.K.でさえ、彼を一瞬見失った。
 |騎士《ナイト》は今、《|獣《けもの》》の頭上の空中にいる。天井から片手でぶら下がっているようにも見えるが、ワイヤーらしきものはどこにも――いや、あった。よくよく目を凝らしてみれば、照明を浴びて微かに銀色の糸が輝いている。
 あれは、《|単分子鞭《ダンシング・ソード》》。常識外れの強度と細さを併せ持つワイヤーだ。あらかじめ天井に打ち込んでいたのだ。敵の動きを完全に予測したうえで。
 つまり――追い詰められたのは、《|獣《けもの》》のほうだ。
 |騎士《ナイト》が腿の|薬剤瓶《アンプル》を抜き取り、蓋をカチリと鳴らして《|獣《けもの》》の背中に放り捨てる。次の瞬間、
 炸裂!
 耳がおかしくなるような轟音と、閉じた瞼さえ貫く閃光が噴き出して、《マクローリン|獣《けもの》》の巨体をコンクリートの壁ごと駅ビルの外に吹き飛ばした。|騎士《ナイト》が敵を追って出ていく。
 一方のK.K.はといえば、危うく爆風を浴びかけたものの、目の前に飛び込んできた黒い金属の塊に庇われて無事だった。
〔お怪我はありませんか? お姫さま〕
 自らのボディを盾にしてK.K.を守ってくれたのは、黒塗りの自動車だった。運転席には誰もいない。《|知能《ジ・インテリジェンス》》に接続された《お喋り車》だ。その制御|構造物《ストラクチャ》が、悪戯な少年めいたきれいな声でべらべらと歯の浮くようなお世辞を並べている。
〔ああ、美しいおかたよ。あなたに出会えた僕は史上最高の幸せ者です。おっと、今の爆発でボディについた傷のことは気になさらないでくださいね。なぜならば――〕
 車は器用に旋回してK.K.に正面を向け、片方のヘッドライトを明滅させてウィンクした。
〔あなたへのご奉仕が僕の歓び!〕

 女が噴煙を切り裂いて外に歩み出ると、《マクローリン|獣《けもの》》は|塵《ゴミ》溜めに頭から突っ込み、火傷と骨折と裂傷のために断続的な痙攣を起こしながら、それでもまだ死にきれず、言葉にならない呻き声をあげているところだった。
 彼女は腿のスロットから《|竜火液《スピッター》》とは別の|薬剤瓶《アンプル》を抜き取り、蓋を取って露出させた針を左手首に突き立てた。《魂のスープ》が血管を通じて全身に染みわたり、先ほどの打撃で折れた肋骨の痛みを麻痺させてくれる。他の痛みも――ささくれだった心の|疵《きず》も――なにもかもだ。
『明る……前向きで……明るく……』
 《|獣《けもの》》が、よろめきながら立ち上がる。今やその脚は13本にまで増えていた。抵抗反応だ。一度《《解き放たれて》》しまった人間は、外界からの刺激に対して自動的に肉体と精神を再構築させ続ける。生命の|軛《くびき》は、あまりにも強い。望むと望まざるとに関わらず。
 再生した脚の全てを使って、《マクローリン|獣《けもの》》が飛び掛かってくる。
『明るく前向きであれ!!』
 無抵抗のまま彼女は《|獣《けもの》》の突進を受け、ビルの外壁に叩き付けられた。《|獣《けもの》》が腕の2、3本を使って彼女の首を締め上げる。だが思いのほか力が萎えていたことに気付いてか、さらに4本の腕を動員する。彼女は腰の短刀を抜いて反撃に転じようとしたが、即座に腕を捩じ上げられ、武器を取り落とした。
『明るく前向きであれ……常に明るくプラス思考……!』
「そうか。それがあんたの《鍵》だったんだな。
 |黄馬軟件公司《ハンマーソフト・コープ》インフェム・エンジニア、角田|明軒《ミンスァン》……」
 《|獣《けもの》》の動きが、止まった。
「強要のための強要。自己目的化した支配。繰り返される無益な階級確認作業。そんなものに判断力も尊厳も奪われて。他の誰かに同じ辛さを押し付けることでしか、自分自身を保てなかった。
 そんなとこだろ。違うのかい……」
 いつのまにか、《マクローリン|獣《けもの》》が、泣いていた。
 鰐口の頭にへばりついた目玉から、大粒の涙が零れ落ちた。背中には新たに3つの頭が生まれていたが、それぞれにひとつずつの目が赤く腫れあがり、泉のように濡れていた。
 角田|明軒《ミンスァン》が、というのはつまり、こんな化け物になる以前の彼が、会社でどんな扱いを受けていたか、知るすべはもはやない。彼はもう、《《解き放たれて》》しまった。
 だが、分からないはずがあろうか。
 この泣きぬれた異形の顔を見れば。|戦慄《わなな》きながらも首を絞めることを止められないこの腕を見れば。嘆き、呻き、苦しみながら、それでも死ねずに生きることしかできないこの姿を見れば。
 それでも|騎士《ナイト》は――いや《《狩人》》は、《|獣《けもの》》を正面から睨めつけるのだ。
「ナメるなよ……」
 |獣《けもの》の腕でを力任せに掴んで捩じ上げ、
「甘ったれてんじゃねえぞ|糞餓鬼《クソガキ》が!!」
 氷のごとく刃が奔る。
 《|獣《けもの》》の腕が斬り落とされる。脚が裂け、腹が断たれ、尾と脊椎とが圧し折られる。跳び回り、暴れ狂い、血の華を絶え間なく咲かす狩人の姿は、さながら吹き荒れる竜巻のよう。もはや全身が血赤に染まり、それでも再生を辞められぬ《|獣《けもの》》の背に飛び乗って、狩人は《|竜火液《スピッター》》の|薬剤瓶《アンプル》を投げ落とす。
 上から突き立てられた大刀の切っ先が瓶を貫き、そのまま《|獣《けもの》》の体内に薬液を捩じ込んだ。ほどなく、白い閃光が傷口から迸り――

 二度目の爆発が、最下層の暗がりを一瞬、染めた。

 K.K.が外に駆け出してきたのは、この時だった。ことの成り行きを確かめずにはいられなくなり、《お喋り車》の制止を振り切って来たのだ。そして彼女は見た。もはや溶けた肉片と成り果て、それでも死に切れずに蠢き続ける《マクローリン|獣《けもの》》と――その傍らに呆然と立ち尽くす、傷つき疲れ果てた女の姿を。
 そこへ車が追いついてきて、ヘッドライトの光量を落とした。さながらそれは、傷ついた相棒の不器用な生き方を哀しみ愛おしむ、友愛の眼差しのようだ。
〔また無茶をして。|黒霧《クロム》さん……あなたって人は〕
 |黒霧《クロム》――|黒霧《クロム》タカセ。
 以前どこかで耳にしたことがある。|最下層《ロウアモースト》に巣食う《異脳》の天敵。これまでに狩り殺した獣は千を数え、絶え間なく血に濡れ、血を悦びとする狂気の女狩人。人呼んで、《ド・ブロイの異脳狩人》――
「あの……狩人さん。私……」
「《枝》の刃は手折られた」
 K.K.が声をかけると、|黒霧《クロム》は謳うようにそう呟き、その場にしゃがみ込んだ。《マクローリン|獣《けもの》》の肉片を弄り、その中から棒状のものを拾い上げる。
 それを見た途端、K.K.の背筋に悪寒が走った。なんだろう、あの棒は。骨にも剣にも枝にも見える。《異脳》の身体の一部だろうか。見たことがないものだ。なのにK.K.は確信していた。
 《《知っている》》。あれは《《在ってはならないものだ》》。
 無意識にK.K.が後退った――そのとき。
 恐怖を覚えることさえ許さず、狩人がK.K.に滑り寄った。《獣》と対峙するときに見せた、肉食獣を思わせるあの素早さでだ。K.K.が目を見開く。狩人の目が《《獲物》》を捉える。その荒れた唇が、不気味な呪詛を唱えている。
「王に死を。
 |去《い》にし|辺《え》より来て|往《ゆ》く|末《すえ》へ。
 明日の明日のその先までも、絶えることなく王に死を」
 次の瞬間、《枝》が彼女の|心臓《なか》を挿し貫いていた。
 途端、血という血がK.K.の中で破裂した。熱は滾り身体を巡り、恐怖は狂気の奔流と化して臓物の裡を逆流し、次いで痛みがやって来た。死さえがまもなく訪れた――痛みが急速に薄れ、意識が暗闇に落ちていく。まるで疲れ果てた寝床で安らかな眠りにつくようにK.K.は死にゆき、死体なりの賢明さで最期の光景を瞼に焼き付けようと努めた。
 狩人の目がこちらを見ている。ミラーグラスにその正体を晦ましたまま。その一瞬、K.K.は確かに見た気がした。ミラーグラスの下から細く――《|単分子鞭《ダンシング・ソード》》の糸よりも細く、一筋の涙が零れているのを。
「受け入れろ」
 狩人が押し殺した声で告げる。
「それがあたしたちの生き方なんだ」

 それを聞くや、正体不明の怒りが湧きあがり、K.K.は猛獣めいて牙を剥きだし、狩人に咬みつかんと伸び上がった。だが朽ちかけた身体にその力はすでになく――彼女は、倒れた。
 それが、K.K.の最期だった。


  *


 《|廣汎化《ユニヴァリゼイション》》の波が全地球を飲みこんで、もう半世紀になる。人類の進化と社会組織の理想化を謳った叡智の播種は、結局のところ、新世代の|汚穢《おわい》という果実のみを後に遺した。
 テクノロジィが創ってしまった、ヒトにしてヒトならざるもの。
 ヒトの中の怪物性の解放。現代に潜む邪悪の化身。あらゆる神話と魔法が遠い過去のものとなった時代に、突如具現化したファンタジィの住人たち。

 《異脳》。

 《《それ》》は誰にでも潜んでいる。
 欲望、不合理、自分さえ良ければ他のものなど知ったことかというきもち。
 その他もろもろの悪徳が、ヒトをヒトの殻から解き放つ。

 つまり――あらゆる街角にモンスターが棲んでいる時代がやってきた、っていうことだ。



 時は、AE56年。
 天は“王朝”に支配され、地には《異脳》どもが溢れ、凡人たちは絶望の中、辛うじて生にしがみついていた。

 そんな混迷の時代に、どこからともなく湧き出した戦士がいた。
 称賛も受けず、寄る辺さえ持たず、銃と、カタナと、安売りの命とを武器にして、《異脳》を闇から引きずり出しては、ただひたすらに屠りつづける、返り血に汚れた狂気の狩人。
 人は彼女をこう呼ぶ。

 ――《ド・ブロイの異脳狩人》と。



※このあとが前回更新記事のサブタイトル以下に続きます。