資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

「シン・ウルトラマン」感想(ネタバレあり)

 結論から言えば、面白くありませんでした。
 それで少ししょげていたのですが、単に落ち込んでいても仕方がないので、具体的に面白かった点、つまらなかった点を書き出しておこうと思います。

 ネタバレしますのでご注意を。

 なお、筆者は幼少期にウルトラマンが放送されていなかった狭間世代であり、過去のウルトラシリーズはほぼ見たことがありません。バンプレストのゲームでブラックRXやνガンダムと相撲とってた、くらいの知識しかないことをご了承ください。

 

●面白かった点

ウルトラマンの「異質な存在」感の描写。

 宇宙から来た、人間より遥かに上位の、敵か味方か、そもそもコミュニケーション可能かどうかも定かではない、明らかに人類とは異質な「もの」という雰囲気が動きや造形によく出ていた。
 筆者のイメージするヒーローとしてのウルトラマンとはちょっと違って、むしろ古き良き「ファーストコンタクト」型SFみたいな感じを受けた。「未知との遭遇」「幼年期の終わり」「ソラリスの陽の元に」とかあのへん。

 

・アクションシーンのかっこよさ。

 ここは本当に良かった。ウルトラマンのパンチひとつとっても、しっかりと腰にタメの入った、意志と破壊力を感じさせる拳になっていた。迫力がすごい。
 白眉は偽ウルトラマンとの格闘から空中戦の流れ、そしてメフィラス戦の大立ち回り。この2つがほんとうに熱い。
 空を「ついー」と滑るようなウルトラマンの飛行時の挙動もよい。
 直立不動のウルトラマンが空中で大回転するシーンなんか面白すぎた。なんなんだあれは。
 その他、細かな良いアクションを挙げていけば枚挙に暇なし。

 

・奇っ怪な宇宙人描写。

 ウルトラマン他の宇宙人は、「奇っ怪」という表現がしっくりくる独特の描写をされていて、それがよかった。
 たとえば、初登場のウルトラマンが「ぬぼーっ……」とただ立っている姿の、そこはかとない不気味さ。
 車の助手席に身じろぎもせず座っている宇宙人ザラブ、という構図の非現実感。
 メフィラスとの戦いのさなか、映像の中に「何か写り込んでる……」としか言いようのない形で現れたゾーフィ。あのシーンは何か「見てはいけないものを見てしまった」ような気味悪さがあった。また、メフィラスが何も説明せず、明らかに怯えた様子で即撤退するのも「ヤバさ」の描写としてたいへん良かった。

 

・メフィラス。

 キャラクターの中ではとにかくメフィラスが良かった。
 名刺、深く頭を下げて顧客を迎える態度、満面の作り笑い、「私の好きな言葉です」……などなど、じっくりと日本語や文化を(良くも悪くも)学んで来ているのがよく分かる描写の連発。いけ好かない宇宙ビジネスマンの姿が生き生きと描出されていた。

 

・「河岸を変えよう」

 ホントに河岸を変えるやつがあるか!

 

ゼットン

 あのデザイン、新鮮ですごくよかった。宇宙要塞ゼットン。かっこいい。

 

 

●つまらなかった点

・地球人に無能しかいない。

 日本の総理、内閣以下政治家や官僚たちはまともに条約の文面を精査する能力もなく、有事になにひとつ具体策を形にできない。それは現場の主役を引き立てるための「かきわり」だから仕方ないにしても、現場の禍特隊も最序盤とラスト以外はほとんど「現場に到着して感想を述べる」ことしかしない無能揃いで、見ていてイライラしかしない。
 まあ、敵怪獣のスペックが異様に高い(MOP2ってそれシンゴジラの背中ブチ抜いたやつやんか……あれを20発ちかく叩きこまれて無傷っていうんじゃ、それこそ核攻撃くらいしか手立てがない……)ので、手をこまねいているのも仕方ないのかもしれない。が、それにしてももう少し頑張ってほしかった。

 

・画面が単調。

 顔面ドアップの構図、いったい何回やるんだ。
 ひとつの技としては良いと思うが、そればかり繰り返されると飽きる。

 

・セリフ回しがダサく、情感がない

 全体的にただ状況を説明しているだけのセリフが多く、つまらない。映画なんだから状況は映像で叩きつけてきてほしい。
 たとえば、ヒロインの人がブルーシートの中で目覚めたシーンで「なんで酔ってもいないのにブルーシートの上で寝てるの?」というセリフ。これは単に疑問を口にしているにすぎない。これを「またやらかした!? ……ああー飲みすぎたーっ」と変えれば、人物のキャラクター描写を兼ねられる。あるいはそんな人物ではないなら、周囲に集まってきた警官に「酔ってません! 立てるし……ぜんぜん酔ってないですよ!?」って熱弁すれば、真面目な性格が見えてくる。
 というのは素人考えでの例だが、要はそのようにセリフの裏側に組み込まれたキャラクター描写がほとんどなくて、それが全体的な人物像の薄さに繋がっていると思う。(翻って、メフィラスだけはその描写が非常に濃く、それゆえ面白いキャラになっていた)

 

ウルトラマンの行動原理を盛り上げられない、演出の不備。

 ウルトラマンは、なんとなくの感傷によって人類をひいきすることを決めている。それを自己犠牲とヒロインの涙で良い話っぽく見せかけているだけで、全くストーリーが盛り上がらない。
 まあ、光の星とやらの住人の標準的な姿を描いてるであろう金色のウルトラマン(ゾーフィ)のほうが理知的で冷静なので、それと対比しての「感傷的な熱血」なのだとは理解できる。
 しかし上記の通り地球人が無能かつ不快な人物ばかりで、「こんな人類だったら滅びたほうがいいじゃん」としか思えないため、ウルトラマンに同調できない。むしろゾーフィの意見の方に賛成したくなる。
 そう感じてしまうのは、映画序盤からウルトラマンと地球人たちのコミュニケーション描写の積み重ねがなされていないため。観客にも「ああそうだな、こんな人類だから守らないとな。頼むぞウルトラマン!」と思えるような具体的エピソード(というか描写)が、映画にのめりこむためには絶対に必要だった。

 

・ヒロインに対する(逆にヒロインからの)下品な性的扱い。

 他人のケツを撫でる仕草、巨大化したときのカメラワーク、「屈辱的な検査」など、妙に多くてただただ不快。匂いを嗅ぐシーンの、露骨に性行為前のやりとりを想起させるセリフなんかはもう痛々しくて見ていられなかった。なにより、ひとつもエロくない。
 こんなのは枝葉末節のことだとは思うが、そんな枝葉まで気になるほど本筋がつまらなかった、というのが正直なところ。

 

 以上で感想を終わります。まだ他にも面白かった点つまらなかった点それぞれあった気がしますが、このくらいしか覚えていませんのであしからず……。

「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」感想(ネタバレあり)

 

 公開から1週間以上経過しましたので、「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の感想を書きます。
 ネタバレはあります。未鑑賞のかたやネタバレを回避したいかたは、この先をごらんにならないようにお願いします。

 

 

 

 


(注)以下、ネタバレあり

 

 

 

 

 

■概観


 まず前提として、僕はシンエヴァに良い印象を持っていません。
 というか、鑑賞からわずか一週間ほどしか経っていないのに、作品内容についてあまり記憶が残っていないというのが現状です。エヴァに対する興味関心も驚くほど薄れており、あまり心が動かないというのが正直なところです。
 それでもこうして感想を書くのは、本放送時にシンジくんと同い年で、「アスカ、来日」の衝撃も、「男の戰い」の熱狂も、「終わる世界」の呆然も、それこそ世界観を塗り替えるような強烈さで味わわされてきた人間が、ここでそれに決着をつけなければどうするんだ、という思いがあったからです。

 ではシンエヴァは駄作だと思ったのか、というとそういうわけでもなくて、むしろ大変すばらしい作品だったと思う。

 前作「Q」を鑑賞した直後、世間で批判的感想が噴出する中、僕はブログにこういう記事を書いていました。

  シンジ君は立ったのです。ラストシーン、丘の向こうへ消えていく三つの足跡。あれほど弱り切っていても、彼が自分の足で歩いている証拠。旧劇場版の、歩くことさえできないまま、ひきずられ、エレベーターに押し込まれ、たどり着いた先でも座り込むばかりで、「しょうがないじゃないか」と言い訳ばかりして、ついにはお母さんに叱られてしまったシンジくんとは違う。
 この新たなシンジくんには、絶望の底から立ち上がる強さがあるのだ。
 ならば、これの絶望が最終決戦を盛り上げるための布石でなくて、一体なんだというのだ。

 (中略)

 エヴァはきっと、前へ進んでいます。

 (中略)

 登場人物たちがみんな、シンジくんへの思いやりに溢れているのも、きっと原作と印象が違うところなのでしょう。アスカは元気よく飛び回り、なんだかんだでシンジくんに気を揉んでいますし、マリさんはここぞという時のキレのあるお説教係。ミサトさんがシンジくんに状況を説明しなかったのは彼の心境をおもんぱかってでしょうし、だからこそ一見冷たく見えて、結局シンジ君を殺すことができなかったし……リツコさんはそんなミサトさんを理解して、フォローしている。原作ではろくに絡みの無かった冬月先生が大人の「責任」を果たし、そしてカヲルくんは心からシンジくんを救おうとしていた。
 結果として今回上手く行かなかったとしても、そうした周りの人々の気持ちがシンジ君を少しずつ変えて行っている。俺にはそう思えます。

2012年11月26日の記事より引用

  シンエヴァをご覧になったかたなら説明するまでもありませんが、上記の内容はシンエヴァでほぼ裏付けられました。
 ミサトさんやアスカの真意は明確になりましたし、それに加えてトウジは父性、委員長は母性、ケンケン(あえてこう呼ぶ。お幸せに!!)は一歩身を引く冷静さで、最大限にシンジくんを労わってくれた。Qの頃から、いや序、破の頃からみんなの声に耳を傾け、シンジくんが少しずつ成長していったからこそ、今ここで彼は「なんでそんなに優しいんだよ!!」と愛を叫ぶことができた。
 Qの当時、「誰かちゃんと説明しろよ」とか「ミサト最悪」みたいな感想は大変多かった(なんなら今でも多い)のですが、そのような声を聴くたびに僕は、「ばかやろう!! ちゃんと見ろよ!! 描いてあるだろ……ちゃんと描いてあるだろ!!」と憤りを覚えていました。
 こうした描写の中に潜むキャラクターたちの真意が、シンエヴァではあけっぴろげにさらされ、言葉によってきちんと説明されていた。シンエヴァのおかげで、連動してQが大変に分かりやすい作品へ昇華されたのではないかと思います。
 やはり当初(新劇場版がまだ「ヱヴァンゲリヲン」ですらなかった初報の頃)の予定通り、「後編(Q)」と「完結編(シン)」は同時公開されるべき一対の作品だったのでしょう。

 それが僕には気に入らない。

 僕は言葉が嫌いです。
 言葉で語られたものは信頼できない。言葉は想いを伝える道具であると同時に、あるいはそれ以上に、想いを包み隠し雲散霧消させてしまう凶器である。なぜなら、想いという複雑怪奇で巨大すぎるものは、とうてい完全に言葉にはできないから。言葉にした時点で、その想いは不完全なものにならざるをえないから。
 でも僕には他にましな道具が見当たらない。だから仕方なく言葉を使う。どうにか伝わってくれと祈りながら言葉を重ねる。そんな不自由に身を浸している。

 しかし世の中には言葉以外による表現もある。映像はその最たるもので、まあ映像には映像の文法もあり、不自由もあろうけれど、少なくとも言葉よりは物事を具体のままに表すことができる。
 エヴァンゲリオンはその技を極限まで高めたような作品で、キャラクターの表情や動きは無論のこと、構図、間の取り方、ほんの一瞬のイメージなどへ巧妙に情報を詰め込んでくる。その技術の素晴らしさはいまさらくだくだ説明するまでもないことで、ほとんどありもの素材の組み合わせと演出技術の妙だけで70分の映画を1本成立させてしまったことすらありました。
 今回もその傾向がないとは言いませんが、いつもにくらべて淡白なのは確か。

 言葉ではなく、もっと映像で見せてほしかった。それがシンエヴァの、いちばん気に入らないところなのです。

 

■日常パートについて

 それはさておき、個々のパートについても感想を述べたいと思います。

 まずはなんといっても「第3村」。とにかくここが良かった。
 序盤で、あの不気味な防護服の中から聞きなれた声が聞こえてきた時の、「あっ……よかった……よかったあああああああ!!! 生きてたのかトウジー!!」という、あの安心感。そのあとのシンジくん復活までの流れはすばらしい演出の連続で、もう何もかもが愛おしい。
 糸の切れた人形のようになっていたシンジくんが、いったん吹っ切れるや、ケロッとして食器を洗ってるシーンなんか特に良かった。そうなんだよな。「調子が悪い」ときにはこの世の終わりみたいな気持ちになるけど、「調子が良く」なるとそんな気分はウソのようにさーっと吹っ飛んでしまうんだよな……と、しみじみ思いをはせたりもしました。

 

■戦闘パートについて

 戦闘パートについては、まあこんなもんかな、という感想でしかないのですが、ミサトさんが例によって特攻始めた時には「やっぱりネモ船長じゃーか!!」とツッコミたい気持ちを抑えるのが大変で。
 あと、新弐号機が使ってたあのノコギリ……まさかあれはデュアルソーということなのか!? うそだろエヴァ2の要素まで取り込んでくれるのか!? と、いらんところに興奮したりもしていました。

 

■補完パートについて

 補完パートも実に見ごたえがありました。(日常、戦闘、補完が3本柱になるあたりがまさしくエヴァだな……)
 ゲンドウがああいう人物なのは旧劇場版の時点で明示されていたことで、序、破にも伏線がありましたから、「まあそうなのかな」という感じではあります。一方、ぜんぜんカッコつける余地もないまま「好きなものはピアノ」とか言わせちゃうところが、エヴァとしてはかなり画期的だったと思います。そうかピアノが趣味だったのか……そういえば、音質にこだわってS-DATとか使ってたんだもんな……シンジくんの楽器の才能は遺伝だったのか……と、妙に納得。

 シンエヴァの補完パート最大の見どころは、これまで完全に人間の領域を超えた「神」として描かれ続け、人間臭さを一切排除されてきたふたりの人物の内面に焦点を当てた所でしょう。
 渚カヲル碇ユイです。

 カヲルくんの真意がああだった、というのは、これは完全に意表を突かれました。これまでの演出で、カヲルくんは人間的な感覚を持っていないんだろうな、と思い込んでいましたので、あんなふうに素朴なエゴに駆られて動いていたのだとは思いもよらなかった。かつて卓越したケレン味の描出によって「なんか世界の謎の核心について知っている超越的謎の美少年」キャラの代表格となったカヲルくんが、ここへきてあたりまえの人間としての側面を見せてくれたのが、端的に言うと嬉しいです。

 そして碇ユイ、彼女もまたずっと謎の女神でした。これまで登場した断片的な描写はことごとくその印象を助長するものだった。
 が、シンエヴァでは碇ユイも人間になった。象徴的だと思ったのがヴンダーに搭載されていた「箱舟」。あれは旧劇場版のクライマックスで明かされた碇ユイの目的、「エヴァの中に宿ってたったひとりで無限に生き、人類の生きた証を永遠に残す」に対応するものだと思われます。
 はっきり言ってこれは狂人の発想であり、まともな人間ならとても耐えられそうにないと思いそうなものです。それほど壮大な女神の意志を、シンエヴァではなんと、加持リョウジが「人類だけが生き延びることに大して意味はない」とばっさり切り捨ててしまう。そして可能な限りの種を保存した箱舟を作り、碇ユイの目的をアップデートされた、しかも人間にも受け入れやすい形で、引き継いでくれた。
 生命というのは本来、動的平衡の中にあるものです。自分の肉体と思っているものですら、毎日の食事で再構築され、呼吸によって霧散していく。だから生命は単独では存在し得ない。多くの個体の間で物質が流転し続けるシステム自体が生命である、というのは納得のいくところ。だから残すなら地球の多彩な生物種まるごとでないと意味がない。こうして旧世紀版の碇ユイは完全否定されてしまった。

 そこで碇ユイに設定された新たな目的とはなんだったか?
 それは、シンエヴァまでに起きる全ての出来事を予見したうえで、最後の最後の瞬間に我が息子を破滅から救い出すこと。

 これはすごい。誰の発案かは分かりませんが本当にすばらしいアイディアでした。
 女神としての壮大さは薄れたかもしれませんが、自体の流れを全部予想していたとすれば、その先見の明はまさに圧倒的。いにしえの張良韓信すらこれに如かずという感じで、むしろ凄味は増した。そのうえ目的が息子の救出であるという、人間的にしっくりと納得のいく動機になった。ここすごく好きです。

 

■「すべてのエヴァンゲリオン」について

 最後に、「すべてのエヴァンゲリオン」について。
 おそらく意図的に、シンエヴァには過去のエヴァ関連作品の要素が散りばめられていました。

 たとえば先ほど話に出たデュアルソーもそうですし、ゲンドウとの対話という結末はエヴァ2の「釣りエンド」を彷彿とさせます。ゲンドウが神となりATフィールドを張るのはマンガ版。最終的に平和な世界でのシンジくんたちが駅で邂逅するのもマンガ版の結末。
 さらに……これは本当に推測なのですが、「スーパーロボット大戦」の要素すら入っているのではないか、と思われます。
 スパロボに出演した時、シンジくんがとにかく精神的に強い、というのはよく言われているところ。その原因として引き合いに出されるのが、マジンガーZの兜甲児をはじめとする他作品のヒーローたちです。

 おもえば、旧世紀版はたったひとりの物語でした。というのは、シンジくんのみならず、ミサトさんもアスカもゲンドウも、主要人物のことごとくが同じ悩みをかかえた、同じ穴のムジナ(同じ穴のヤマアラシ?)ばかりだった。だから誰と対話をしたって、それは自分の心を覗き込むようなもの。理解は深まるかもしれないが、解決策もそこにはない。つまり、エヴァに「他人」はいなかった。良くも悪くも内省的な物語だったと思います。

 しかしスパロボではそうはいかない。各作品から、ぜんぜん性格の違う「他人」がどしどし押し寄せてくる。必然的に交流が……というかクロスオーバーが生まれる。兜甲児のパワーに感化され、シンジくんは原作よりも強く成長していく。
 その「他人」として登場したのが、真希波マリではなかったか。
 というのは、「破」を鑑賞した直後あたりに、知人と感想を話しているなかで出てきた話なのですが、シンエヴァを見て、ここも推測通りだったのではないかと感じています。つまりマリは兜甲児の化身だった。

 過去のエヴァンゲリオン関連作品のみならず、クロスオーバー作品での客演に至るまで、シンエヴァで言及される「すべてのエヴァンゲリオン」には、ほんとうに掛け値なしに「すべて」が含まれているのではないかと思います。そのうえで、ああしてきちんと話を畳んだ。そこについては本当に良かったと思います。

 なんかまとまりがないですが、とりあえず感想はこのくらいにしておきます。
 お付き合いありがとうございました。

ド・ブロイの異脳狩人/Take1-4

 教室に戻ったときにはもう代数の講義が始まっており、《|気晶显示《ディスプレイ》》いっぱいに余弦定理の証明が表示されていた。K.K.が遅刻を謝ると、教師は強張った表情のまま席につくよう指示した。よくあることだ。珍しくもない。
 だが、窓際の席まで歩く途中、K.K.は自分を包む異様な空気に気づいた。注目されるのは慣れている――だが、何かが違う。羨望でも嫉妬でもない。強いて言えば――好奇?
 助けを求めて|梓《アズサ》を探す。彼女は遠くの席で、隣に並んだ|宇博《ユーハウ》と何か囁き交わしている。こちらを見てさえいない。
 音を立てぬようそっと席についた時、突如頭の中で声が響いた。
 ――四つ。
 K.K.は小さく震え、声の主を求めて周囲に視線を巡らせた。しかし生徒たちはみな一様に、教師の話に集中するふりをしている。
(なんだ? 今の?)
 何かおかしい。今日は朝からどこかが変だ。自分は何か、ひどく重大なことを見落としている――そんな気がした。
 その時、ふと視界の隅、窓の向こうの体育館の屋根の上に、黒く小さな人影が見えた。
 K.K.は椅子を蹴って立ち上がった。
 教室中の視線が集まる。
「K.K.?」
「あ、あー」
 K.K.は一瞬考え、
「トイレ行ってきます」
 呆然と自分を見つめる数十の目の前で、K.K.は力強く、うん、と頷いた。
「生理で!」

 廊下に出るなりK.K.は駆け出した。確かに見えた。あの屋根の上。瞬きひとつする間に消えてしまったが、確かに人の姿があった。夜そのもののように暗く、狩人の弓のようにしなやかで、野生の獣のように美しい。
 |黒霧《クロム》タカセ――異脳狩人。
 夢で見たのとそっくり同じ、狩人の姿がそこにあったのだ。

ド・ブロイの異脳狩人/Take1-3

 だが、彼女の納得に楔を打ち込もうとするかのように、校庭の向こうに2つの影が現れた。はじめK.K.はそのうちひとつ――童顔の若き政治家のほう――のみを認め、飛び上がって手を振った。
「|小博《シャオボー》!」
 しかし、クソ真面目な顔して手を振り返す|李博宇《リー・ボーイ》の後ろに、黒々とわだかまる夜そのものの浮き出たような影を見、K.K.の顔は凍り付いた。両脇の友人たちも庇ってはくれない。
「イシュトヴァーン伯父様……」
 この恐るべき老人を前にしては。

  王朝|六常侍《りくじょうじ》がひとりイシュトヴァーン卿にかかっては、一種の治外法権を黙認された学院といえども平身低頭言うがままになるしかない。学院長は自らK.K.たちを応接室に案内してくれ、給仕のような愛嬌で飲み物の注文まで取ろうとした。|博宇《ボーイ》が慇懃にそれを拒絶し、応接室から学院長を追い出す。
 K.K.はイシュトヴァーン卿と一対一で向かい合わせに腰掛け、固い顔をしていた。この世界の実質的統治者たる伯父のことが、K.K.は昔から苦手だった。亡母からみれば、卿は30以上も歳の離れた兄であるらしい。だが記憶の彼方にある優しげな母の肖像と、この厳しい老人の顔は似ても似つかない。長く垂れた灰色のあごひげが針金のように固く揺れ、岩の擦れるような声が薄い唇の奥から漏れ出した。
「変わりはないか、K.K.?」
「ええと、その」
 応接机の下で膝が震えている。卿の背後に直立不動の|博宇《ボーイ》が見えるのだけが小さな救いだった。K.K.は拳を握りしめ、勇気を奮い立たせて返答する。
「はい。元気です」
「役目を受け入れたというのだな」
 役目。|王神《K.K.》という役目。やり手の伯父の前に立ち、傀儡として愛らしく振る舞う大切な役目。
「そうです――何年も前から」
 イシュトヴァーン伯父が妙な顔をする。|博宇《ボーイ》に目配せをする。|博宇《ボーイ》が口を開く――明らかに戸惑っている。
「K.K.、本当に変わりはございませんか? 何か――心身の不安であるとか、わだかまりのようなものは」
「ぜんぜん? 元気だよ。んー……朝、すごく寝汗かいてたけど、怖い夢を見たから多分そのせいで……」
「よろしい」
 イシュトヴァーン伯父が立ち上がった。こうして見上げると伯父の長身は眼前に立ち塞がる断崖絶壁のようだ。
「近いうちにまた話すことになるだろう。忘れるな、K.K.。余人にお前の代わりは務まらぬ。この世でただひとり、お前だけが……」
 伯父はそこで激しく咳き込み、|博宇《ボーイ》に背を擦られた。だが若者の気遣いを乱暴な手付きで払い除け、足枷を引き摺る囚人のような足取りで出て行ってしまった。後に残された|博宇《ボーイ》は気を悪くした風もなく、主人の不機嫌な背中にそっと頭を垂れる。
「伯父様のお付きも大変だね、|小博《シャオボー》」
「そろそろ|小博《シャオボー》はやめてもらえませんか、いい歳なんですから」
「まだ30歳にもならないでしょ。若い若い。まだいけるって! 私、|小博《シャオボー》だったら付き合えるなー」
「ご冗談を」
 |博宇《ボーイ》が耳まで真っ赤になって目を逸らす。からかいがいのある愛らしい男。まだ母が生きていた頃、彼のことを|小博《シャオボー》と呼んで可愛がっていたのを覚えている。K.K.にとっては数少ない母の記憶のよすが。数少ない、本音を出せる相手のひとり。
 その|博宇《ボーイ》が、妙に改まった様子でK.K.の前にひざまずく。
「K.K.……もし、もし何か……困ったことがあったら、朝廷に来てください。私が力になりますから」
「うん。いつも頼りにしてるよ」
「光栄です……それでは、また」
 |博宇《ボーイ》が出て行った。
 ひとりになるや、K.K.は愛想笑いをあっさり捨て去り、小首を傾げる。
(なんか普通じゃないな……なにか起きてる? なんだ?)

ド・ブロイの異脳狩人/Take1-2

 校門の周囲に溜まって熱い視線をくれるクラスメイトたちへ、さりげない微笑を配り、背筋をピンと伸ばして一声。
「おはよう、みんな」
 反応はさまざまだ。舞い上がってうわずった挨拶を返してくる男子。よそ行きの顔で応える女子。照れて無言でそそくさ立ち去る者が数名。露骨な侮蔑と羨望の色を全身に現しながら無視を装うものも幾ばくか。だが、誰にも無関心は許さない。K.K.の立ち居振る舞いには、それだけの迫力があった。
 生徒たちの波を割って校庭に入ると、いつものメンバーがその歩みに合流してきた。|宇航《ユーハウ》――長身の男子、成績も良くて運動もできる、そのうえ金持ち、当然モテる。|梓《アズサ》――抜群のスタイルを誇る美女、人当たりが良くて誰にでも愛される、そしてもちろん、背が高い。やめてくれ。左右を挟んで立たないでくれ。こう並ばれると、ちんちくりんのK.K.は、さながら古代の文献にある“捕らえられた|宇宙人《リトル・グレイ》”だ。
「おはよう、《《クリス》》」
「おはよう、アズサ」
「今日もモテるね」
「うるさいよ、|宇航《ユーハウ》」
 知り合いは多いが、K.K.を本名で“クリスティーン・|姫《ジィ》”と呼ぶのはこの二人だけだ。その距離感……というよりも、K.K.の心情を慮って、努めて気楽に振る舞ってくれるその気遣いが、嬉しくもあり、痒くもあり。
「ところで|宇航《ユーハウ》。後でよろしく」
「またー? 宿題くらいたまには自分でやったらどう?」
「やるつもりだったんだよなーっ。なんで出来なかったかなーっ。昨日の夜何してたっけーちょっと記憶がーあー」
プレッツェル、おごりな」
「足元見やがって……あれ? アズサ、バイオリンケース? 今日音楽あったっけ!?」
「ないない。間違えて持ってきちゃっただけ。水曜かと思って」
「マヌケー。今日、金曜よ」
「月曜だよ」
 と|宇航《ユーハウ》。そして3人で、ケラケラ笑う。
 これが舞台のお芝居なら、それでもいいかとK.K.は思う。自分が|王神《K.K.》であるがゆえに、ありのままの関係は望むべくもない。だが、心地よく楽しく心躍る時が過ごせるなら、一体何の問題があろうか?
 たとえこの場の全てが、偽りに過ぎなかったとしても。

ド・ブロイの異脳狩人/Take1-0


(キャッチコピー)

好きでもない男たちに、かわるがわる殺される。



(紹介文)


 《|廣汎化《ユニヴァリゼイション》》の波が全地球を飲みこんで、もう半世紀になる。人類の進化と社会組織の理想化を謳った叡智の播種は、結局のところ、新世代の|汚穢《おわい》という果実のみを後に遺した。

 テクノロジィが創ってしまった、ヒトにしてヒトならざるもの。
 ヒトの中の怪物性の解放。現代に潜む邪悪の化身。あらゆる神話と魔法が遠い過去のものとなった時代に、突如具現化したファンタジィの住人たち。

 《異脳》。

 《《それ》》は誰にでも潜んでいる。
 欲望、不合理、自分さえ良ければ他のものなど知ったことかというきもち。
 その他もろもろの悪徳が、ヒトをヒトの殻から解き放つ。

 つまり――あらゆる街角にモンスターが棲んでいる時代がやってきた、っていうことだ。



 時は、AE56年。
 天は“王朝”に支配され、地には《異脳》どもが溢れ、凡人たちは絶望の中、辛うじて生にしがみついていた。

 そんな混迷の時代に、どこからともなく湧き出した戦士たちがいた。
 称賛も受けず、寄る辺さえ持たず、銃と、カタナと、安売りの命とを武器にして、《異脳》を闇から引きずり出しては、ただひたすらに屠りつづける、返り血に汚れたハンターたち。
 人は彼らをこう呼んだ。

 ――ド・ブロイの異脳狩人と。







0 異脳狩人


 追い詰められたK.K.は、手頃なコンクリート片を引っ掴む道を選んだ。女の子《《らしく》》震えて死を待つなんて、思いつきもしなかったのだ。
 ここは|積層都市構造物群《レイヤード》|最下層《ローアモースト》デルタ・ブロック、通称“スクラップ通り”の市内線駅。全ての|列車《ハコ》が緊急停止し、利用者も駅員も逃げ出してしまった無人のプラットホームには、今や息のつまるような静寂ばかりが残されている。その最も隅の、最も目立たない柱の陰で、K.K.は最前から、じっと息を潜めている。
 隣では、K.K.より4、5歳は幼いであろう、10歳かそこらの少年が、必死に哭くのを堪えようとしている。K.K.と関わりのある子ではない、単にたまたま駅で近くにいただけの他人だ。しかし、連れて逃げずにはいられなかった。
 彼と一緒にいた母親は、《マクローリン|獣《けもの》》に叩き潰されて、死んだ。よく熟れた|紫外《UV》フルーツが弾けるようにだ。
 K.K.は、己の不運を呪わずにはいられなかった。
 確かに、|最下層《このあたり》には、かなり《《多い》》と聞いていた。だが、まさか初めて足を踏み入れたその日に、いきなり《《やつ》》と出くわすなんて――
 ――と。
『明るく前向きであれ!』
 |紫外《UV》フルーツの破裂音。
 K.K.は固く目を瞑り、体中の筋肉を引きつりそうなほどに強張らせ、恐怖を奥歯で噛み締めた。
『ひとつ! 笑顔で対応! ひとつ! 常に明るくプラス思考!』
 くぐもった《マクローリン|獣《けもの》》の声が響くたび、液体がぶちまけられる不愉快な音がそれに続いてプラットホームを駆け巡った。耳ざわりのいいお題目とともに繰り出される地獄のような暴力。K.K.たちと同じようにどこかに隠れていたであろう被害者が、今どんな目に遭っているのか――うっかり詳細に想像してしまい、猛烈なストレスのために胃液が喉まで逆流してきた。
 K.K.はコンクリ片を腿のそばまで引き寄せた。人工岩石の重みと冷たさが足に伝わり、ギリギリのところで恐慌と嘔吐を食い止めてくれた。
 瞼を開く。震える少年の背中が視界に入る。
 すると不思議なことに、K.K.の恐怖が、閉店時間を迎えた|飲食店《ダイナー》の照明めいて静かに引いていき、そのうちに消えてしまった。後に残ったのは、奇妙に落ち着いた心持ちだけだ。
 戦力どころか足手まといでしかない怯えた子供が、どうしてこうまで彼女を宥めてくれたのか、それは全く分からないが。
『明るく……前向きで……』
 《マクローリン|獣《けもの》》の声がようやく止み、代わりに、重い足音が聞こえだす。
 向かってきている、こちらに。間違いない。
 死は時間の問題だ。
 K.K.は柱から身体をはみ出さないよう気を付けながら、少年の肩に手を載せた。彼が涙目をこちらに送る。K.K.は自分でも驚くほど優しく余裕のある笑顔をして見せ、声には出さず、唇の動きだけで言葉を伝えた。
「だいじょうぶ。私が守ってあげるからね」
 そして、固くコンクリ片を握る。
 途端、闘志が湧いてきた。
 雄叫びあげてK.K.は飛び出す。《マクローリン|獣《けもの》》の脳天に、両手で振り上げたコンクリートを力任せに叩き込む。
 頭蓋の割れる音がして、《獣》の巨体が床に這いつくばった。
 やった! と思うと同時に、生物的で根源的な言いようもない恐怖が再びK.K.の内臓を掻き乱した。そうなるだけのおぞましさを、《マクローリン|獣《けもの》》は持っていたのだ。
 やつの姿は、辛うじてヒトであったころの痕跡を残している。少なくとも顔や手のひらは人間のそれだ。しかし体長は実に5メートル余り。《獣》そのものの仕草で四つん這いになり、背骨を猫のごとく醜く丸め、椎骨の突起を青ざめた肌の下に浮き上がらせているのだ。先ほどまで――本性を現すまで――着ていたスーツ一式はとうに弾け飛んでいたが、異様に細長い首に、洒落た柄のネクタイだけが頼りなくぶら下がっている。
 その首が呻き声と共にもたげられ、憤怒も憎悪もない、気色悪いまでに虚ろな双眸がK.K.を捉える。
 今の一撃が効かなかったわけではあるまいが、あの程度で殺せるほど《獣》はかわいいものではないということだ。
 だが、そんなことは|端《ハナ》から分かっている。
「こっちだ! 来いッ!」
 雄々しく叫んでK.K.は駆け出した。《獣》の脇をすり抜けプラットホームの入口へ。《マクローリン|獣《けもの》》が、何かわけのわからない鳴き声をあげるのが背後に聞こえた――
『悪いのは|顧客《クライアント》ではない! 大きな声であいさつ!!』
 その声のうきうきと弾んだことといったら、まるでクリスマスプレゼントを得た子供のよう。
 《獣》の四肢が蟲めいて蠢く。異様な巨体が、猛然とK.K.を追い始めた。その姿をちらりと後ろ目に捉え、K.K.は通路を折れて地上への階段に飛び込んだ。
(そうだ。来い。あの子に気付かないくらい、夢中で私について来い!)

 アルミニウムの手すりを|拉《ひし》ぎ、改札のバリケードを蹴散らし、鉄筋コンクリートの列柱をすら粉砕して、《マクローリン|獣《けもの》》が追ってくる。K.K.は走る。力の限り走る。広い空中通路に飛び出し、今や障害物でしかないベンチを踏み越え、傷だらけのアクリル製ドアに飛びついて。
〔いらっしゃいませ〕
 完全に自動化されたゲートが呑気に歓迎の言葉を述べながらモタモタと開いていく。K.K.は細い体を横にして狭い隙間に捻じ込んだ。すぐさま走る。後ろでまたゲートがしゃべりだす。
〔いらっしゃ……〕
 ぶ厚いアクリル板の粉砕される音がそれに続いて、それっきりゲートは沈黙した。
 泣きたい。泣いて立ち止まってしまいたい。
 K.K.を突き動かした勇ましい義侠心はいつのまにか消え失せ、今は猛烈な後悔だけが残っている。放っておけばよかった。じっと隠れていればよかった。あんな恐ろしいモンスターに、立ち向かおうなんて馬鹿だった。ましてや――見ず知らずの子供を助けるために自分が犠牲になろうなんて。
 映画なら、そろそろハンサムな|騎士《ナイト》さまが助けに来てくれる頃合いだ。他の惑星から飛来した正義の|超能力《スーパーパワー》マンか、差別に苦しみながらそれでも戦う|変異種《ミュータント》戦士か、さもなくば|巨大機械《メガ・ロボット》兵器に乗った思春期の少年か、そんなものが結局ヒロインを助けてくれる。
 だがそんなこと、あるわけない。なぜならこれは《《現実》》だ。
 一足ごとに恐怖がつのる。息は上がり、足は棒になり、身体と精神の限界が近づいてくる。止まりたい。休みたい。座り込んで、寝転がって、もう何もかもどうでもいいと、無責任に投げ出してしまいたい。
 なのに、厳然たる未来予測が立ち止まることを許してくれない。
 止まれば――死ぬ!
 涙を目尻に溜めたまま、闇雲に走り回り、駅ビルのショッピング・モールに駆け込んだところで、ついにK.K.の精神は臨界を超えた。映画の中でさえ見たことのない恐るべき光景が、何の心構えもできていない彼女の目に突如飛び込んできたのだ。
 広い食品売り場一面の、壁という壁、床という床、あらゆる商品棚とプラスティック・パックの上に、叩き付けられ、へばりつき、赤黒い滴を今でも垂らし続けている――死体の、山。
 肉という肉が内側から弾けたように飛散して、潰れた脳と、原形をとどめたままの指が、絡まり合いながら壁紙になっている。飲料水のボトルには腕が何本か紛れていたし、床は、もともと何の部位だったのかも分からないようなグチャグチャしたものに覆い尽くされていた。なのに、そうした赤一色の景色の中に、無数の眼球だけが浮き上がるような白さで点在しているのだ。
 ふと横手を見ると、キンピラ・ゴボウのパウチ・パックが整然と並ぶ上に、頭蓋から剥がれ落ちた人の顔面が貼り付いていて、驚き顔のそいつと、目が合った。
 脚が止まった。
 呆然と、ただ呆然と、K.K.はそのありさまを、とりわけ、キンピラ・ゴボウの上の顔面を見つめ続けた。気持ち悪い。吐きそう。怖い。自分の身体と心には確かに異変が起きていたが、K.K.はそれを妙に冷静に、他人事のように観察していた。
(本当に怖いと、人間ってこうなるのか)
 糸が切れた人形のように力が抜けて、血に濡れた床に尻餅をつく。
 すると、なぜか、笑い声が零れた。面白いことなんて、何もないのに。
「うふっ……」
 もう、走ることは、できない。
 背後で物音がした。K.K.がへたりこんだまま首だけをそちらに向けると、《マクローリン|獣《けもの》》が、長い首を食品売り場のゲートからニュッと差し込んできて、『やあ』というみたいな、気さくな笑顔をこちらに向けた。
『笑顔で対応』
 K.K.は、そこで確認した。
(そっか。私、死ぬんだ)
 そして、《|獣《けもの》》が少女を引き裂く。

 ――そのはずだった。
 ふとK.K.は我に返り、おかしいな、と思った。なぜ死んでいないのだろう? 身体も全然痛くない、走りすぎでヒリつく気管を除いては。数秒の間、思考とも呼べない曖昧な電気シナプスの活動を続けたあと、ようやく彼女は自分がずっと床を見つめ続けていたことに気付き、さっきものすごい音が聞こえたことを思い出し、視線を持ち上げてみることにした。
 ゆったりと弧を描く、長身の女の背中がそこにあった。
 荒れたボロボロの黒髪。得体の知れない腐臭が染み付いたコート。左には黒光りするカタナの鞘、右には拳銃のホルスター。腰の後ろに横差しに差された大振りのコンバット・ナイフ。腿のスロットには何かの液体が満ちた|薬剤瓶《アンプル》。右手にぶら下げられた抜き身の大刀は艶めかしいまでの輝きを見せ、左手では、銃身切り詰めたショット・ガンが、白い煙をゆったりと吐いている……
 K.K.は馬鹿みたいに口をポカンと開け、女の背中と、その向こうでのたうち回る《マクローリン|獣《けもの》》の姿を交互に見やり、間抜けた声で呆然と呟く。
「……|騎士《ナイト》さま?」
 しかし女は、ハ、と小さく鼻で笑い、
「違うね」
 片手で器用にショット・ガンを|再装填《リロード》し。
「ただの害虫駆除業者さ」

 |騎士《ナイト》が奔る。肉迫までミリ秒。呻く《|獣《けもの》》の顔面を太刀で横薙ぎに薙ぎ払い、悲鳴を上げる《《それ》》の鼻先に|零《ゼロ》距離からの|4番弾《フォアゲイジ》を叩き込む。
 轟音。白煙。跡形もなく消し飛ぶ顔面、辛うじて残る下顎と不揃いの歯。
 《マクローリン|獣《けもの》》の絶叫が止まり、しかしその身体は脳を失ってなお反撃のために動き出す。横手から風を唸らせ剛腕が襲い掛かる。だが頭を潰した程度で《《やつら》》が止まらないのは想定済み。
 |騎士《ナイト》は身体をかがめて紙一重に拳をかわし、伸び上がりざまの一撃で《|獣《けもの》》の腕を斬り飛ばす。痛みにのけぞる敵の懐に我から飛び込み太刀を振るい、腹を横一文字に両断するや流れるように脚の下から滑り出る。一瞬遅れて《|獣《けもの》》の巨体が床に突っ伏せ、その背骨を、大上段に振り下ろされた白銀の刃が叩き割る。
 噴水のごとく噴き上がった血飛沫が、|騎士《ナイト》のミラーグラス・ゴーグルを斜めに汚した。
 K.K.は――ただ、その戦いに見惚れていた。
 生まれて初めて見る本物の戦い――《《殺しあい》》。
「きれい……」
 K.K.の場違いな感想は彼女に届いていたのだろうか? |騎士《ナイト》が《|獣《けもの》》の背中を踏みつけ、めり込んだ刀身を力任せに引き抜きながら、錆びた鉄扉の軋みを思わせる重低音で警告する。ミラーグラスと返り血のために視線は読めない。
「下がっていろ」
「えっ?」
「まだ終わりじゃない」
 と。
 彼女の言葉を証明するかのように、《|獣《けもの》》が動いた。
 尻の肉が突如として蠢き、盛り上がり、太い尾が間欠泉めいて素早く《《生えてくる》》。いや違う、尻尾ではない。伸び上がった肉塊の先には鰐に似た大顎と牙が造形されている。
 ――ふたつめの頭!
 と凍り付くK.K.の目の前で《マクローリン|獣《けもの》》が跳ね上がり、|騎士《ナイト》を軽々と弾き飛ばした。いつのまにか《|獣《けもの》》の腹の下には《《5本の脚》》が、それも関節の異様に多い滅茶苦茶にねじくれた脚が生えていて、それが一斉に|発条《バネ》のごとく伸び上がったのだ。
 さらに、銃撃で吹き飛んだひとつめの頭が蛇のようにうねりながら再生する。その表面の肉を突き破って無数の歯が生え出し、棘に覆われた巨大な鞭となって、空中の|騎士《ナイト》に襲い掛かった。
 宙に投げ出され、走ることも跳ぶこともできない|騎士《ナイト》は、その重打をまともに受けた。骨の軋む強烈に不快な音がそこらじゅうに響き渡り、思わずK.K.は息を呑む。|騎士《ナイト》の身体が床に弾み、そこに《|獣《けもの》》が飛び掛かり、次々振り下ろされる踏みつけの中、|騎士《ナイト》は転げるように逃げ回る。
『ひドつ! 明るる前向きだれれ! 大きなあいさ! 声!』
 《|獣《けもの》》が新しい口で、もはや人語の|態《てい》を保てなくなった雄叫びをあげる。異形の巨体を引きずり、楽しそうに|騎士《ナイト》を追い詰めていく。一方の|騎士《ナイト》は傷ついた血塗れの身体でふらつきながら後退し、ついには壁に背をついた。
 大顎が矢のように唾液を迸らせ、|騎士《ナイト》の胴を咬み砕く――その直前。
 |騎士《ナイト》の身体が忽然と消えた。《|獣《けもの》》の牙は空しく宙を咬み、勢い余って鼻先をコンクリートの壁で叩き割る。遠くから見ていたK.K.でさえ、彼を一瞬見失った。
 |騎士《ナイト》は今、《|獣《けもの》》の頭上の空中にいる。天井から片手でぶら下がっているようにも見えるが、ワイヤーらしきものはどこにも――いや、あった。よくよく目を凝らしてみれば、照明を浴びて微かに銀色の糸が輝いている。
 あれは、《|単分子鞭《ダンシング・ソード》》。常識外れの強度と細さを併せ持つワイヤーだ。あらかじめ天井に打ち込んでいたのだ。敵の動きを完全に予測したうえで。
 つまり――追い詰められたのは、《|獣《けもの》》のほうだ。
 |騎士《ナイト》が腿の|薬剤瓶《アンプル》を抜き取り、蓋をカチリと鳴らして《|獣《けもの》》の背中に放り捨てる。次の瞬間、
 炸裂!
 耳がおかしくなるような轟音と、閉じた瞼さえ貫く閃光が噴き出して、《マクローリン|獣《けもの》》の巨体をコンクリートの壁ごと駅ビルの外に吹き飛ばした。|騎士《ナイト》が敵を追って出ていく。
 一方のK.K.はといえば、危うく爆風を浴びかけたものの、目の前に飛び込んできた黒い金属の塊に庇われて無事だった。
〔お怪我はありませんか? お姫さま〕
 自らのボディを盾にしてK.K.を守ってくれたのは、黒塗りの自動車だった。運転席には誰もいない。《|知能《ジ・インテリジェンス》》に接続された《お喋り車》だ。その制御|構造物《ストラクチャ》が、悪戯な少年めいたきれいな声でべらべらと歯の浮くようなお世辞を並べている。
〔ああ、美しいおかたよ。あなたに出会えた僕は史上最高の幸せ者です。おっと、今の爆発でボディについた傷のことは気になさらないでくださいね。なぜならば――〕
 車は器用に旋回してK.K.に正面を向け、片方のヘッドライトを明滅させてウィンクした。
〔あなたへのご奉仕が僕の歓び!〕

 女が噴煙を切り裂いて外に歩み出ると、《マクローリン|獣《けもの》》は|塵《ゴミ》溜めに頭から突っ込み、火傷と骨折と裂傷のために断続的な痙攣を起こしながら、それでもまだ死にきれず、言葉にならない呻き声をあげているところだった。
 彼女は腿のスロットから《|竜火液《スピッター》》とは別の|薬剤瓶《アンプル》を抜き取り、蓋を取って露出させた針を左手首に突き立てた。《魂のスープ》が血管を通じて全身に染みわたり、先ほどの打撃で折れた肋骨の痛みを麻痺させてくれる。他の痛みも――ささくれだった心の|疵《きず》も――なにもかもだ。
『明る……前向きで……明るく……』
 《|獣《けもの》》が、よろめきながら立ち上がる。今やその脚は13本にまで増えていた。抵抗反応だ。一度《《解き放たれて》》しまった人間は、外界からの刺激に対して自動的に肉体と精神を再構築させ続ける。生命の|軛《くびき》は、あまりにも強い。望むと望まざるとに関わらず。
 再生した脚の全てを使って、《マクローリン|獣《けもの》》が飛び掛かってくる。
『明るく前向きであれ!!』
 無抵抗のまま彼女は《|獣《けもの》》の突進を受け、ビルの外壁に叩き付けられた。《|獣《けもの》》が腕の2、3本を使って彼女の首を締め上げる。だが思いのほか力が萎えていたことに気付いてか、さらに4本の腕を動員する。彼女は腰の短刀を抜いて反撃に転じようとしたが、即座に腕を捩じ上げられ、武器を取り落とした。
『明るく前向きであれ……常に明るくプラス思考……!』
「そうか。それがあんたの《鍵》だったんだな。
 |黄馬軟件公司《ハンマーソフト・コープ》インフェム・エンジニア、角田|明軒《ミンスァン》……」
 《|獣《けもの》》の動きが、止まった。
「強要のための強要。自己目的化した支配。繰り返される無益な階級確認作業。そんなものに判断力も尊厳も奪われて。他の誰かに同じ辛さを押し付けることでしか、自分自身を保てなかった。
 そんなとこだろ。違うのかい……」
 いつのまにか、《マクローリン|獣《けもの》》が、泣いていた。
 鰐口の頭にへばりついた目玉から、大粒の涙が零れ落ちた。背中には新たに3つの頭が生まれていたが、それぞれにひとつずつの目が赤く腫れあがり、泉のように濡れていた。
 角田|明軒《ミンスァン》が、というのはつまり、こんな化け物になる以前の彼が、会社でどんな扱いを受けていたか、知るすべはもはやない。彼はもう、《《解き放たれて》》しまった。
 だが、分からないはずがあろうか。
 この泣きぬれた異形の顔を見れば。|戦慄《わなな》きながらも首を絞めることを止められないこの腕を見れば。嘆き、呻き、苦しみながら、それでも死ねずに生きることしかできないこの姿を見れば。
 それでも|騎士《ナイト》は――いや《《狩人》》は、《|獣《けもの》》を正面から睨めつけるのだ。
「ナメるなよ……」
 |獣《けもの》の腕でを力任せに掴んで捩じ上げ、
「甘ったれてんじゃねえぞ|糞餓鬼《クソガキ》が!!」
 氷のごとく刃が奔る。
 《|獣《けもの》》の腕が斬り落とされる。脚が裂け、腹が断たれ、尾と脊椎とが圧し折られる。跳び回り、暴れ狂い、血の華を絶え間なく咲かす狩人の姿は、さながら吹き荒れる竜巻のよう。もはや全身が血赤に染まり、それでも再生を辞められぬ《|獣《けもの》》の背に飛び乗って、狩人は《|竜火液《スピッター》》の|薬剤瓶《アンプル》を投げ落とす。
 上から突き立てられた大刀の切っ先が瓶を貫き、そのまま《|獣《けもの》》の体内に薬液を捩じ込んだ。ほどなく、白い閃光が傷口から迸り――

 二度目の爆発が、最下層の暗がりを一瞬、染めた。

 K.K.が外に駆け出してきたのは、この時だった。ことの成り行きを確かめずにはいられなくなり、《お喋り車》の制止を振り切って来たのだ。そして彼女は見た。もはや溶けた肉片と成り果て、それでも死に切れずに蠢き続ける《マクローリン|獣《けもの》》と――その傍らに呆然と立ち尽くす、傷つき疲れ果てた女の姿を。
 そこへ車が追いついてきて、ヘッドライトの光量を落とした。さながらそれは、傷ついた相棒の不器用な生き方を哀しみ愛おしむ、友愛の眼差しのようだ。
〔また無茶をして。|黒霧《クロム》さん……あなたって人は〕
 |黒霧《クロム》――|黒霧《クロム》タカセ。
 以前どこかで耳にしたことがある。|最下層《ロウアモースト》に巣食う《異脳》の天敵。これまでに狩り殺した獣は千を数え、絶え間なく血に濡れ、血を悦びとする狂気の女狩人。人呼んで、《ド・ブロイの異脳狩人》――
「あの……狩人さん。私……」
「《枝》の刃は手折られた」
 K.K.が声をかけると、|黒霧《クロム》は謳うようにそう呟き、その場にしゃがみ込んだ。《マクローリン|獣《けもの》》の肉片を弄り、その中から棒状のものを拾い上げる。
 それを見た途端、K.K.の背筋に悪寒が走った。なんだろう、あの棒は。骨にも剣にも枝にも見える。《異脳》の身体の一部だろうか。見たことがないものだ。なのにK.K.は確信していた。
 《《知っている》》。あれは《《在ってはならないものだ》》。
 無意識にK.K.が後退った――そのとき。
 恐怖を覚えることさえ許さず、狩人がK.K.に滑り寄った。《獣》と対峙するときに見せた、肉食獣を思わせるあの素早さでだ。K.K.が目を見開く。狩人の目が《《獲物》》を捉える。その荒れた唇が、不気味な呪詛を唱えている。
「王に死を。
 |去《い》にし|辺《え》より来て|往《ゆ》く|末《すえ》へ。
 明日の明日のその先までも、絶えることなく王に死を」
 次の瞬間、《枝》が彼女の|心臓《なか》を挿し貫いていた。
 途端、血という血がK.K.の中で破裂した。熱は滾り身体を巡り、恐怖は狂気の奔流と化して臓物の裡を逆流し、次いで痛みがやって来た。死さえがまもなく訪れた――痛みが急速に薄れ、意識が暗闇に落ちていく。まるで疲れ果てた寝床で安らかな眠りにつくようにK.K.は死にゆき、死体なりの賢明さで最期の光景を瞼に焼き付けようと努めた。
 狩人の目がこちらを見ている。ミラーグラスにその正体を晦ましたまま。その一瞬、K.K.は確かに見た気がした。ミラーグラスの下から細く――《|単分子鞭《ダンシング・ソード》》の糸よりも細く、一筋の涙が零れているのを。
「受け入れろ」
 狩人が押し殺した声で告げる。
「それがあたしたちの生き方なんだ」

 それを聞くや、正体不明の怒りが湧きあがり、K.K.は猛獣めいて牙を剥きだし、狩人に咬みつかんと伸び上がった。だが朽ちかけた身体にその力はすでになく――彼女は、倒れた。
 それが、K.K.の最期だった。


  *


 《|廣汎化《ユニヴァリゼイション》》の波が全地球を飲みこんで、もう半世紀になる。人類の進化と社会組織の理想化を謳った叡智の播種は、結局のところ、新世代の|汚穢《おわい》という果実のみを後に遺した。
 テクノロジィが創ってしまった、ヒトにしてヒトならざるもの。
 ヒトの中の怪物性の解放。現代に潜む邪悪の化身。あらゆる神話と魔法が遠い過去のものとなった時代に、突如具現化したファンタジィの住人たち。

 《異脳》。

 《《それ》》は誰にでも潜んでいる。
 欲望、不合理、自分さえ良ければ他のものなど知ったことかというきもち。
 その他もろもろの悪徳が、ヒトをヒトの殻から解き放つ。

 つまり――あらゆる街角にモンスターが棲んでいる時代がやってきた、っていうことだ。



 時は、AE56年。
 天は“王朝”に支配され、地には《異脳》どもが溢れ、凡人たちは絶望の中、辛うじて生にしがみついていた。

 そんな混迷の時代に、どこからともなく湧き出した戦士がいた。
 称賛も受けず、寄る辺さえ持たず、銃と、カタナと、安売りの命とを武器にして、《異脳》を闇から引きずり出しては、ただひたすらに屠りつづける、返り血に汚れた狂気の狩人。
 人は彼女をこう呼ぶ。

 ――《ド・ブロイの異脳狩人》と。



※このあとが前回更新記事のサブタイトル以下に続きます。

ド・ブロイの異脳狩人/Take1 1

 

「枝の刃は手折られた」
 狩人の目がK.K.を捉え、
「王に死を。去にし辺より来て往く末へ。明日の明日のその先までも。絶えることなく王に死を」
 《枝》が彼女の|心臓《なか》を貫いた。
 途端、血という血がK.K.の中で破裂した。熱は滾り身体を巡り、恐怖は狂気の奔流と化して臓物の裡を逆流し、次いで痛みがやって来た。死さえがまもなく訪れた――痛みが急速に薄れ、意識が暗闇に落ちていく。まるで疲れ果てた寝床で安らかな眠りにつくようにK.K.は死にゆき、死体なりの賢明さで最期の光景を瞼に焼き付けようと努めた。
狩人の目がこちらを見ている。ミラーグラスにその正体を晦ましたまま。
「受け入れろ」
 彼女が押し殺した声で告げる。
「それがあたしたちの生き方なんだ」

 それを聞くなり正体不明の怒りが湧きあがり、K.K.は猛獣めいて牙を剥きだし、狩人に咬みつかんと伸び上がり――力尽きて、倒れた。
それがK.K.の最期だった。

 

01 悪徳の積層都市(キュムレイティヴ・レイヤー)

 K.K.は汗だくで跳ね起き、全裸で寝具に包まれていた己を見出した。
 耳鳴りが奇妙な心地よさで静寂の中に響き、窓から差す暖かな恒常灯が白く埃を浮かび上がらせている。息をするのも忘れ、夢と現実の違いも判らず、K.K.は、指先で自分の乳房に触れた。肉の感触。やわらかい。確かにそこに在る生命という、圧倒的存在感。何もかも夢だったのだ――ようやくその《《結論》》に至り、K.K.は胸の中でスタックしていた呼気を、堰をきったかのように吐き出した。
 ノックの音がして、|楢《オーク》の扉越しに、じいやの声が聞こえてくる。
「K.K.? たいへんなうなされようでしたが?」
「殺された夢を見た。怖かった。でも、裸なので入ってこないように」
 じいやが扉一枚の向こうで唸っている。思えば裸だなんて余計な情報を与える必要なかった。つい、思っていることが口に出る。
 K.K.は手早く着替えて寝室を出た。
胸元に赤いリボンをあしらった紺の制服。黒のソックスに、縁取りがかわいい革靴。まっすぐな黒髪は無造作に垂らして、流水めいた髪留めで前髪を押さえる。ピンと伸びた背筋はさながら細身の短剣。よく尖り、よく切れ、よく冷えている。
廊下で待ち構えていた爺やと顔を合わすなり、K.K.は彼の戸惑い顔をひたりと見据えて繰り返した。
「怖かった」
「もう安心でございます」
「怖かった」
「夢は終わりました。おいしい朝食もこしらえてあります」
「怖かったの」
「そうでしょうとも。そうでしょうとも」
「お前はいつも私のほしいものをくれるから好きだ」
 だが、じいやは顔を曇らせる。
「いいえ。わたくしどものほうが、あなたから頂いているのです。全てのものか――あるいは少なくとも、きわめて多くのものを。K.K.、|王《カイゼリン》にして|神《ケーニギン》たる方よ」


K.K.が|王神《K.K.》になったのは、もう12年も前のことだ。幼かった彼女は、先代の王神であった母の跡を継ぎ、わけもわからぬままに世界の支配者となった。
 だからといって何かが余人と異なるわけではない。食事もすれば排泄もする。風邪も引けば怪我もする。背も伸び、ニキビに悩み、胸も膨らんで、控えめながら自慢できる軟らかさになり、月に一度の不愉快も味わう。赤い血の流れた人間だ。
 とはいえ、賢明な彼女は、自分がいかに優遇されているかということには、はっきりと気付いていた。
 佐藤さんの運転で屋敷の門を出、|積層都市構造物群《レイヤード》|第一層《プライマリ》を一望に見渡せる坂道に出る。天井で爽やかな青光を放つ《恒常灯》を浴びて、きらめく緻密な街並みは壮大なモザイク画のよう。学校へ向かう道すがら、何人もの徒歩や自転車のクラスメイトを追い抜く。彼ら/彼女らの視線が、白の高級車の背後に注がれているのが分かる。
尊重と憧れ。少なからぬやっかみと敵意。ただ生きているだけで他人に何らかの感情を抱かせずにはいられない、フラットには生きられない自分の立場を、K.K.はよく把握している。
 だが、一体この世の誰が、社会の目から自由に生きられるというのだろう? いかにして、自分に向けられたバイアスから
逃れられるというのだろう?
 緩やかにカーブを描くコンクリートの道を、小川のような穏やかさで下り、校門の前で車は止まった。佐藤さんがドアを開けてエスコートしてくれる。そんなことしなくても自分でドアくらい開けるのに。率直にそう訴えたことも一度や二度ではないが、もうK.K.は諦めている。
世界が、彼女に|王神《K.K.》としての振る舞いを求めている。彼女は女優。社会という大舞台で、世界から任命された役を演じる、この人生の主演女優だ。
 なら|演《や》りきってみせようじゃないか。