資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

プリンセスには、貌が無い 2.全き白の仮面/2

 老婆は魔女であった。驚くにはあたらぬ。このような森の奥に、大鬼小鬼に囲まれ暮らしているものが、魔女でなくてなんであろう。
 老婆は自らをインバと名乗り、アルテマ姫に癒しの魔術を施してくれた。傷の上に――といっても、あらゆる所が傷であったが――手をかざし、何やら得体の知れぬ呪文を唱えると、白い光が指先から仄かに滲み出て、すうっと痛みが引いていくのであった。
 インバ婆曰く、回復の魔法は得意ではない。この術は人が身体に備えている自然治癒の働きを促しているだけで、治るかどうかは本人の体力次第なのだ、と。
「だから、今はとにかくごはんをしっかり食べて、ぐっすり睡眠を取ること! オーケイ?」
 そう言って、インバ婆は器用に片目を瞑ってみせた。
 それから食事が始まったが、インバ婆や大鬼ガリの食欲ときたら並大抵のものではなかった。無数の皿に山と積まれた料理の数々――腸詰めのトマト煮込み、しだれ茸の素揚げ、鶏つみれの甘辛ソース掛け、そして燃えるように熱い蒸かしジャガイモ塩バター風味、等等(エトセトラ)、等等(エトセトラ)――を我先にと頬張り、しゃぶりつき、奪い合い、さながら戦場の如きありさま。呆気に取られるアルテマの前で、血で血を洗う大乱戦が繰り広げられた。その騒がしいことといったら、
「ちょっとガリ! それあたしの!」
「早いもんがちだ! あっ……オレの目玉焼きーっ!」
「へっへーん早いもんがちですよーだ」
「ずるいぞインバ! そういうつもりなら……隙ありーっ!」
「あーっ!? あたしの愛するタコさんウインナーをおおおおっ!? おにょれっ! この罪たとえ神が許しても、このあたしが許さあああああんっ!!」
 この調子であった。無限の容量を持つかに思える二つの胃袋に、肉も野菜もみるみる飲み込まれていく。アルテマはつばを飲み込んだ。涎がじわりと湧き出して、すっかり準備を整えているのが分かった。もっとも、口を開けるだけで酷く痛むアルテマは、どのみちスープくらいしか食べられないのであったが。
 彼女には、あの単眼の少年が付き添って、一口ずつスープを食べさせてくれた。インバたちが食べているあの皿の料理も旨そうだが、このスープも実に大したものだった。たっぷりの肉、野菜、豆、幾多の香草、大蒜などを、煮込みに煮込んでどろどろに煮崩して、しかも丹念な裏漉しによって品のある舌触りに仕上げている。一口含めば口いっぱいに広がる濃厚な生命の息吹。まるで野山の草木の一斉に芽吹くが如く。さらに喉の奥へ飲み下せば、腹の底からむくりむくりと活力が湧き上がる。まさに命の雫と呼ぶに相応しい。
 猛烈に腹の空いていたアルテマは、匙を差し出されるままに食べた。食べた。いくらでも食べられた。ついには一口を飲み下した後、次が来るのが待ち遠しくて、切ない吐息を漏らしてしまうのだった。単眼の少年はせっせと食べさせた。まるでアルテマの心の声を聞き、その希望に懸命に応えんとするかのようだった。
 夢中になって食い、ようやく満ち足りた時には、ゆうに小一時間が過ぎていた。
 食べ終えた途端、眠気が彼女に襲いかかった。抗えようはずもなかった。ずっと我慢強く給仕をしてくれた少年に一言礼を述べたかったが、朦朧とした頭では、舌はもはやろくに動かなかった。それどころか、自分はまだ彼の名前も知らないのだと気付いて、彼女は己の非礼と浅ましさを悔いた。
「ぼくはミエル」
 少年は何故か嬉しそうに頬を赤らめ、アルテマの上に暖かい布を掛けてくれた。
「いいの。いいの。眠って。ね……」
 言われるままにアルテマは目を閉じた。
 そして何か幸福な夢を見た――目が覚めた時には、その記憶はおぼろに融けてしまっていたが。

プリンセスには、貌が無い 2.全き白の仮面/1

2. 全き白の仮面


 枯れ草色の森の奥にはぽっかりと開けた原っぱがあり、そこに農家がふたつ並んでいた。
 木造藁葺に荒い土壁の掘っ建て小屋。中は囲炉裏を囲む細長い土間ひとつきりで、それを衝立が緩やかに分割している。農村でも基礎や壁に石材を用いる建築が珍しくない中、この家はいかにも貧しく古めかしい。ともすれば廃屋にさえ見えたかもしれない。しかし、壁や屋根に施された細やかな手入れは、確かに住人の息遣いを物語っているのだった。
 住人、すなわち、彼のことである。藁の寝台のそばに膝をつき、最前から溜息ばかり漏らしているこの――生物。一見人間の少年のようだが、目は顔の中央にひとつきりであった。異形の少年は、ぽかんと口を開けたまま、単眼を毬のように真ん丸と見開いて、寝台に横たわる少女を見つめている。
「きれい……」
 誰に聞かせるでもなく、心の声が口から漏れ出た。
 と、その吐露に惹き寄せられるかのように、少女は丸3日もの眠りから覚め、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
 誰あろう、アルテマ姫である。
 目覚めた姫が最初に見たものは、上からじっと睨み下ろす獰猛な単眼(驚きと恐怖が少しばかり認識を歪めていたことは否定できぬ)。姫は金切り声を上げ、咄嗟にその場を飛び退こうとして、全身の表皮を駆け回る恐るべき疼痛に二度目の悲鳴を上げた。痛い、と言葉にすることさえ脳が拒絶するほどの凄まじさ。涙が否応なく、ぼろり、ぼろりと、熟れた果実のもげ落ちるが如く零れた。腕も脚も、全身に包帯が巻かれていると気付いたのはこの時だ。
「ごめん、泣かないで、ごめん」
 単眼の少年が、自らも大粒の涙を落としながら囁いた。壁に引っ掛けてあった大きな帽子を掴み、巣穴へ逃げ込む小鼠を思わせる素早さで頭を突っ込んだ。次いで衝立の向こうに駆けて行き、綿の入った上着やら座布団やらを山と抱えて戻ると、アルテマ姫の周りを囲むように敷き詰めだしたのだ。
「寝て。ゆっくり。ね、ね」
 アルテマは、背中を二枚重ねの座布団越しに支える少年の手を感じた。その心遣いにも関わらず、寝そべるまでの僅かな動きは途方もない苦痛をもたらした。我慢して我慢できるようなものではない。涙は止めどなく溢れ、喉の奥からは情けない嗚咽が零れた。少年は姫が哭くたびに励まし、気遣い、一緒に泣いた。だからといって痛みが和らぐわけではなかったが。
 ――あの帽子は、異形の目を隠すためか。
   わらわを怖がらせぬために、か……
 少なくとも、そう気付くことができる程度には、姫の心に余裕が生まれたのであった。
 やっとのことで寝台に身を横たえ、アルテマは胸の奥に押し留めていた呼気を慎重に吐き出した。少年も安堵に微笑んでいる。目は帽子に隠れて見えぬが、少なくとも口元では。すまぬ、と彼に伝えたかったが、今は、声を出すのはおろか、ただ息を吐くだけでも辛い。
 しかし彼は、謝罪も感謝も求めてはいないようだった。
「待ってて。ひと、呼ぶ。ね?」
 不慣れな言葉を一生懸命に紡いだ、という具合にそう告げると、家の外へ飛び出して行ってしまった。
 残されたアルテマは、視線だけを動かして家の中を見回した。ここはどこであろう。一体何が起きたのであろう。記憶を少しずつ辿っていき、自分が森で火に巻かれたことを思い出した。ということは、誰かに命を救われたのか。いや、実はとうに死んでいて、幽世に落とされてしまったのか――
 ぼんやりと妄想にふけるアルテマの元へ、少年が大柄な男を連れて戻ってきた。男? いや、これも人間とは呼べぬ。筋骨隆々とした見上げるような体躯に、ハリネズミを思わせる金色の長い髪。額には左右一対の短い角。まさしく鬼そのもののなりであった。
 アルテマは、今度は驚きも慌てもしなかった。恐れていないわけではなかったが。
 ――まあ、取って食われはすまい。もしその気なら、とっくに事は済んでいた。
 そう腹を括っているのであった。
 半ば予想していたとおり、大鬼は妙に愛嬌のある笑顔を浮かべ、アルテマのそばにしゃがみこんだ。
「よかったな、お嬢ちゃん。もう大丈夫だぜ。
 おーいインバ! あの子目を覚ましたぞーっ!」
「そんな大声出さなくたって聞こえてるわよ、ガリ」
 返事は思いのほか近く――家の戸口あたりからきた。杖を突き、足を引きずり、それでもどこか溌剌とした気配を漂わせながら入ってきたのは、背の曲がった老婆。栗色の髪は老いてなお美しく、目は丸々と肥えたドングリのよう。
「おはよ。ま、聞きたいことは山ほどあるだろーけど……まずは腹ごしらえといきましょーか?」
 驚くべき事に、老婆の声は愛らしい小鳥のそれであった。

プリンセスには、貌が無い 1.かくして姫は全てを喪った(2)

 その日、王都では聖堂という聖堂から鐘の音が鳴り響き、片時も止むことがなかった。聖女トビアによるクレクオス王復活の奇跡、その故事に因んだ鐘だ。
 快癒を願う無数の声にもかかわらず、ベンズバレン王ザナクの容態は悪化する一方であった。力なき群衆の祈りなど、《病》と《死》の圧倒的猛威を前にしては何の効き目も持たぬのだろうか。あるいは、祈りの中にいくらかの不純物でも混じっていたのだろうか――王の死こそを望む者達の呪詛が。
 鐘をどこか遠くに聞きながら、ザナク王は間近に迫った死を予感した。そこで人を遣り、王として最後の役目を果たすべく、ふたりの子を呼び寄せたのだった。
アルテマ。ルナル。落ち着いて、王の言葉をよく聞きなさい」
 子どもたちの前では、己を王などと呼んだことのないザナクであった。王女は目に涙をため、小刻みに震えながらじっと王を見つめている。泣いてはならぬ、と念じていたのであろう。
 目の前に横たわるは、父ならぬ王。
 ならばその傍らに立つは、子ならぬ王子に他ならぬ。
 娘たちの聡明な態度に満足して、王は彼に出来うる限り素早く頷いた。すなわち、澱が水底に積もるかの如く鈍く。
「ルナルよ、この国は汝が継げ。アルテマよ、そちは姉としてルナルを輔けよ。ふたりで国を治めるのだ。国家の趨勢も国民の運命も、全てはお前たちの……」
 王は口をつぐみ、言葉の代わりに呻き声を漏らした。縋り付き父を呼ぶアルテマも、この痺れた手では撫でてやることもできない。
「父上……無理です。わらわには、とても……」
「いや、やらってもらわねばならぬ。魔王が倒れたとはいえ復興はまだ半ば。内患外敵も数知れず。余の死とともに、多くの難題が揃って蠢き出すであろう。社稷を守れるのは、そなたたちをおいて他にない。
 さあ、約束しておくれ。父を安心させておくれ……」
 そう言って王は微笑んだ。
 否。
 身体中を蝕む痛みに堪えながら見せたその笑みは、紛れもなく、優しい父のそれであったのだ。

 なのに、今。
 国を継ぎ、社稷を守ることはおろか。
 アルテマは我が身さえ守りきれず、下劣なる男の下に組み敷かれている。
 怒りが突如として煮え滾った。
 男は汗まみれの顔を俄に歪めた。快楽が頂点を迎えんとしていた。ために彼は我を忘れ、姫の腕を押さえつけることも一瞬忘れた。
 その好機を、逃すアルテマではない。
 咄嗟に掴んだ木の枝を、躊躇いなく男の眼球に突き立てた。男は掠れた悲鳴とともにのけぞり、さらに陰部を力任せに蹴り上げられて、悶絶しながら倒れ込む。
 アルテマは立った。もう一撃要る。冷静にそう判断すると、拳ほどの石を拾い上げ、雄叫びを上げながら男の頭蓋に叩き込んだ。
 もはや小さく痙攣するのみとなった男を捨て置き、アルテマは歩きだした――足は依然として痛む。そこでドレスの裾を千切り、太い枝を添え木にして括りつけた。痛くない、とはとても言えぬ。しかし何もしないよりはましだ。
 森の中を王者の歩みで進みながら、アルテマは繰り返し心に念じ続けていた。さながら、あの日父のために鳴らされた鐘の音のように。
 ――死にたくない。
  死ぬのは嫌だ。
  死ぬわけには――!

 程なくして、ひとりの傭兵が仲間たちに発見された。助け起こされた彼は痛みと衝撃のために混乱していた。なにしろ目を潰され、頭を割られたのだ。
「おい! ゴルタン、大丈夫か」
「馬鹿野郎、油断してるからだ」
 仲間たちの心配に、ゴルタンは意味不明の喚き声で答えた。と、不意に絶叫するや、仲間を突き飛ばし、その手に握られていた松明を奪い取った。
「あの女! 目ェ! 暗えよ! 暗えよォーッ!!」
 そして仲間たちの静止も聞かず、辺りを駆け回り、次々に火を付け出したのである。下生えも枯れて乾ききっている冬のこと、火は瞬く間に燃え広がり、傭兵たちが慌てて砂をかけ始めた頃にはもはや手遅れとなっていた。
「暗えよ……明るくしてくれよ!!」
 泣き喚くゴルタンを置いて、傭兵たちは逃げ出した。他にどうしようも無かったし、何より、姫を殺すという目的は、山火事が代わりに果たしてくれそうだったからである。

 アルテマの背後にも、炎の舌が迫っていた。
 足の痛みは一層酷くなり、下腹部の裂傷もそれに加わり、原因不明の吐き気までもが襲ってきた。そのうえ地獄を思わせるこの熱気、肌を焦がす炎の嵐。火は彼方(あなた)へ広がり此方(こなた)へ走り、アルテマの逃げ場をひとつひとつ奪っていった。このままでは――
 涙が零れそうになったそのとき、アルテマの髪に火が燃え移った。絹糸を思わせる、細く艶やかな桃色の髪だ。それが紅蓮の炎に包まれて、アルテマの頭を、体を、焼き尽くさんと這い登ってくる!
 泣き叫びながらアルテマは地面にのたうち回った。土に頭をこすり付け、転がり、暴れ、火を消し止めようと足掻きまわった。だが炎の勢いは留まるところを知らず、やがて皮膚が沸騰を始め、激痛が肌という肌からアルテマを蝕み、ついには頭全体が火の玉と化した。
 逃れようのない地獄の中で、アルテマはただ、叫んだ。叫び続けた。それだけが、彼女の命を繋いでいたのだ。
「……………るか……
 ……んでたまるかっ……
 死んでっ……」
 伸ばした手は、炎に包まれ。
 怒りの炎を、我が物として。
 声は、炎そのものの如く。
「死んでたまるかァ――ッ!!」
 そこで、アルテマの意識は途絶えた。

「魔風!」
 と老婆が呼び掛けると、その手の先から突風が迸り、行く手の炎を蹴散らした。燻る草木を踏みしめながら、老婆は悠然と近付いていく。火に巻かれ、黒く焼け爛れた少女の元へ。
「遅かったか……」
 曲がった腰をさらに曲げ、盲かけた目をくりくりと見開いて、老婆は少女の様子をうかがった。よくよく見れば、微かに喉が動いている。消え入りそうな呼吸の音が聞こえる。
「生きてるわ! こっちよ!」
 呼ばれて来た大男――いや、怪物?――は、少女を見るや眉間にしわを寄せ、静かな怒りに低く呟いた。
「こりゃあひどい……」
「うちに運びましょ。ガリ、そっち持って」
「よしきた」
 黒焦げのアルテマを軽々と肩に担ぎ上げ、ついでに反対の肩には老婆を載せて、ガリなる怪物はひょこひょこと歩き出した。
 何処とも知れぬ、森の奥へ向かって。





勇者の後始末人
第13話“プリンセスには、貌が無い”

1.かくして姫は全てを喪った 了

プリンセスには、貌が無い 1.かくして姫は全てを喪った(1)

"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A13"God Save the Princess!"/The Sword of Wish

 

1. かくして姫は全てを喪った


 馬車は逃げた、森の悪路を。片時も休むわけにはいかぬ。背後には賊軍どもが迫っている。規律正しく名誉を重んじる上級騎士とはものが違う、人の皮を被った獣ども。捕まれば、荷台の乙女たちがどのような災難に見舞われるか――
 乙女ふたりは互いに抱き合い、一枚の襤褸に縋るように包まり、ただひたすらに耐え続けた。酷い馬車の揺れはふたりの恐怖をさらに掻き立てたが、泣き言は言えぬ。汗に塗れ、自分達と同様に怯えながら、それでも必死に馬を操るオモワ老を見れば、一国の王女たる者が情けない姿を見せられようか。
 と、オモワ老が何か物音を聞きつけ、弾かれたように振り返った。
「姫様! 伏せ――」
 その頭を3本の鉄矢が貫いた。
 爆ぜる肉、抉られた目、優美ささえ感じさせる動きで、ゆったりと舞いながら――オモワは倒れ、馬車から転がり落ちた。
 悲痛なる絶叫を上げたのはルナル。爺の名を喚き身を乗り出したのはアルテマ。地面に転がったオモワの死体は見る見る後ろに遠ざかり、御者を失った馬車はさらに揺れを激しくした。咄嗟にアルテマは御者台へ跳び移り、転がっていた鞭を取って、見様見真似に馬を打つ。それは馬の恐怖を増幅する行いに過ぎなかったやもしれぬ。それならそれでもよい。
 ――逃げるのじゃ。死にたくはなかろう。
 その打擲は悲鳴めいて夜に響いた。
 ――わらわは死にとうない!
 その想いが通じたのだろうか、馬は僅かに落ち着きを取り戻した。王宮きっての名馬とオモワが請け負った馬だ。走ってくれさえすれば、賊軍どもの駄馬などに遅れを取りはしないはず。
 これならば、とアルテマが胸を撫で下ろした、その時であった。
 唐突に森が開け、前方に崖が姿を現した。ぞっと背筋に悪寒が走る。手綱を取って滅茶苦茶に引く。しかし到底間に合わぬ。全速力で走り続けていた馬は止まることも曲がる事もできず、そのままの勢いで車ごと崖から飛び出した。
 宙に投げ出されたアルテマは、初めて味わう濃厚な死の絶望に身震いしながら、それでもルナルの姿を探し求めた。己と同じように放り出され、その細い手を必死にこちらへ伸ばしてくる、たったひとりの妹の姿を。
「ルナ!」
「姉様!」
 呼びかけは夜空に交われど、伸ばした腕が交わることはなく。
 ふたりは落ちた。崖下に広がる森、その深い暗闇の中へ。

 次に目覚めた時アルテマはたったひとりで、森の中には何者かの気配が蠢いていた。木々の向こうの暗がりに、赤い剥き出しの炎が小さく見える。松明を手にした追手どもであろうことは考えるまでもなかった。
 立ち上がるや、激痛に悲鳴を漏らす。落下した時に左脚を挫いたらしい――骨がやられているやもしれぬ。
 ともあれ、声を立ててしまったのは失敗だった。彼方の灯火が急に動きを変え、ひととき戸惑いを見せた後、こちらに近づきはじめたのだ。再び迫った危機にアルテマは息を飲み、首を振り回すようにして妹を探した。近くにいても良さそうなものだが、まるで姿が見えぬ。枝の切れ間から差し込む月明かりのみでは、とても探し出せそうにない。
 ならば、それよりも。
「きゃーっ!」
 わざと声を振り絞って悲鳴を上げ、アルテマは森の中を逃げ始めた。少し進んで、また声を出す。松明は確かにこちらに向かってくる。
 これでよい。妹はあの近くに倒れているはず。自分が追手を引き寄せれば、それだけルナルが助かる見込みが増すではないか。
 一歩ごとに襲い来る足の痛みは凄まじいものだったが、それでも立ち止まるわけには行かぬ。この一歩が我が身を助く。と同時に妹の命さえ繋ぐのだ。脂汗の伝い落ちる瞼の下で、アルテマは決意の視線を前へ向けた。逃げるのだ。なんとしても!
 だが、相手は鍛え上げられた傭兵だ。こちらはやっと成人したばかりの小娘。不慣れな森の中、足を痛め、さらには灯りさえない。逃げ切ることなどできようか。
 木の幹に寄りかかりながら、必死の思いで逃げるアルテマの前に、ついにひとりの兵が現れたのである。
「見つけたぜ、お姫さま……」
 墨を流したかのような闇の中、月光に青く浮かび上がる男の顔は、これまで見たいかなるものよりも醜く、歪んでいた。
 醜怪なるものへの憎悪が顔に現れてでもいたのだろうか。男は一層穢らわしく嗤い、
「そう邪険にするなよ。楽しくやろうじゃないか、なあ」
「寄るな! 痴れ者!」
 姫は甲高く一喝した、が――
 男が飛び掛かる。姫は逃げた。しかし足の傷から電流の如き痛みが走り、一歩さえ進むことなく転び倒れた。黒い影がのしかかってくる。乱暴にスカートを捲り上げる。
 ――何をする気だ!?
 姫は知らなかった。然るべき教育を受け、数々の知識を身に着けていたとはいえ――ある道においては、いまだ無知ゆえの美を保ち続けていたのだ。しかし恐怖だけは知っていた。他の何も知らずとも、これから来る猛烈な暴力は男の異様な興奮の中に読み取れたのでたる。
「やめよ! やめっ……」
 命令は無視され、暴れる腕は頭の上に押さえ付けられた。そして彼女は初めて知った。
 この世には、止めろと頼んでも止めてもらえぬことがあるのだと。
 悪と粗暴の剣が、捩じ込まれた。姫の、小さな扉の奥へと。
 絶叫。挫いた足などとは比べ物にならぬ痛み。と同時に得体の知れぬ不快が彼女を襲った。何をされた? 何故この男は必死に腰を振っている? この醜悪な笑みは一体なんだ? 恐怖に、嫌悪に、暴れれば暴れるほどに男は悦び、いきり立ち、獣じみた呻き声さえ発するのだ。
 一突きごとにいや増す痛みの中、姫は悟った。これは男の快楽の行為。自分は今、そのための玩具にされている。いいように玩ばれている。こんなくだらない男によって!
 涙が、零れた――痛みにか。いや。
 味わったことのない痛烈な屈辱のために。
「ああ、いいぞ、いいぞ、お姫さま」
 男がなにか言っている。
「いや元お姫さまか、王さまが死んだいまじゃあな。ああっ……」
 王が死んだ。
 その一言で姫の脳裏に蘇った。死に際の、父王の姿が。

プリンセスには、貌が無い 1-4

 故にユーナミア王女は大慌てで身支度を整えねばならなかった。いささか煩わしいのは否めない。我から言い出したこととはいえ。
 部屋に駆け込むなり姫は侍女たちを呼びつけた。7人総掛かりで服を着替える。優美なドレスは雑に脱ぎ捨て、飾り気のないゆったりとしたチュニクを纏う。足元は動きやすい焔織りのズボンに鉄面牛の革ブーツ。長く美しい桃色の髪は結い上げて帽子の中に捩じ込んだ。麻の頭陀袋を用意させ(無論そのようなものが姫のクローゼットにあるはずもなく、侍女の私物を充分な金貨にて贖った)、そこに幾つかの必需品を詰め込んだ。小さく丸めた外套、ビスケットを一袋、些少の金品。
 最後に一対の魔法の仮面を差し入れようとしたとき、姫は何かただならぬ気配を感じて顔を上げた。窓の外に目をやり、毅然とした声で侍女たちに命じる。
「もうよろしい。下がっておいで」
「しかし姫様……」
「わらわの言葉に従えぬかや? さあ、おゆき。呼ぶまで戻ってこないように」
 明らかに旅支度としか思えぬ姫の装いに侍女たちはみな不信の念を抱いていたが、主の命令には従わねばならぬ。彼女らが躊躇いがちにぞろぞろと居なくなり、一人になると、姫は緊張に唇を結んだ。いよいよ急がねばならぬ。侍女の誰かが父王に報告を上げることを思いつき、そして実行に移すだろう。その前に事を済まさねば。少なくとも、もう取り返しがつかなくなるところまでは。
 ユーナミアは鼓動が高まるのを感じた。生涯感じたことがないほどの激しさだ。先の見えぬ未来への期待と不安がないまぜとなり、体中の血が沸騰する。
 ふと、手にしていた仮面の一方に目を落とした。“愚者”の仮面。そうだ。愚かにならねば。あらゆる小賢しい保身を吹き飛ばしてしまうほどに。
 仮面を被れば、不思議と躊躇いは掻き消えた。窓を押し開け、身を乗り出す。前に揺れるは庭木の杉。下は目も眩むほどの高さ。だが恐怖はない。余計なものは大喰らいの“愚者”が皆飲み込んでしまった。
 袋を肩にかけ、窓に足掛け、大きく息を吸い込んで――姫は、跳んだ。
 跳んで庭木に跳びついた。
 が、思いの外軟弱だった庭木は姫の体重を支えきれずたわみ始め、
「わっ……わ、わ」
 大きく弓なったかと思うと、背筋の凍るような破砕音とともに折れ飛んだ。
「わあ!?」
 風が耳元で唸り、みるみる地面が迫り、もはやこれまで! と目を閉じた彼女を、飛来した何者かが掻っ攫った。一瞬の出来事。気が付けば、姫は遥か上空にいた。城の屋根を見下ろす青空の只中に。
「え!?」
「動くなよ」
 耳元で男の声がした。そこでようやく、己の身体が後ろから男の腕に抱き締められているのだと気付いた。咄嗟に縛めを逃れんと藻掻くが、鍛え上げられた膂力には全く歯が立たぬ。
「《風の翼》の術は制御が難しい。落とされたくなければ大人しくしているんだな、シンジル王女ユーナミア殿下」
「汝は誰ぞ!」
 背後に頭を回せば、辛うじて男の顔が見えた。むっつりとして笑み一つ浮かべぬ無愛想。野獣を思わせる顔立ち。
「ブラスカ」
 そして声は、天地を掻き乱す嵐の如くであった。

プリンセスには、貌が無い 1-3

 ベンズバレン軍急襲せりの報は物見の口から発せられるや瞬く間に知れ渡り、城内はさながら煮え滾る大鍋が如き狂騒に覆われた。貴族どもは大慌てで着慣れぬ甲冑を身に纏い、兵たちは混乱する指示に右往左往するばかり。場違いなドレス姿のユーナミア王女が作戦会議室を訪れても、それを咎めるものひとりいない有り様であった。
「和平だと、愚か者! 我が誇りあるシンジル将兵の面汚し、呆れた無能の敗北主義者奴!」
 父王の激昂は珍しいことではない。どころか彼が持つ叱責の語彙は他のあらゆる分野にも増して充実しており、その怒りを買った者は一口ごとに異なる多彩な罵倒を楽しむことができる。ユーナミアは父のこういう面が好きではなかった。己に向けられた言葉ではないにせよ、その抑揚の利いた激しい怒声は無垢なる乙女を震え上がらせるには充分すぎるほどだったのだ。
 しかしなぜか、今日に限ってユーナミアは平然と父の怒りを眺めている自分に気付いた。恐れるどころか、喚き立てる父が怯えた子鼠の如く感じられた。そう、怯えているのだ。突如来襲した大国ベンズバレンに。これから自分を襲う運命に。何より、状況が変わったという、その事実そのものに。
 父の後ろに歩み寄りながら、ユーナミアはそっと目元に指を這わせた。被ったままの“賢者”の仮面が、指先を通じて励ましてくれているように思えた。
「門を閉ざし、固く守り抜け! 我が要塞は……」
「恐れながら陛下、援軍のあてのない籠城は下策にございます」
「ならばなぜあてを作らぬ!」
「陛下」
 背後から突如聞こえた氷の如き声に、王は震え上がって振り返った。そこにいるのが愛娘――なんのつもりか妙な面を被っているが、それでも娘には違いない――であると気づき、だらしなく顔をほころばせる。
「おお、おお、姫よ」
「陛下、謹んで申し上げます」
「何故そのようにかしこまるのか。いつものようにお父様と呼んでおくれ」
「ユーナミアは争いを好みませぬ」
 父王は呆気にとられ、ぽかんと口を開いた。左右の側近たちはその一言で姫の意図を察し、期待に、あるいは焦りに色めき立った。主戦派にとっても和平派にとっても、これは全く予想外の干渉であっただろう。
「なんだと?」
「使者を送りなさいませ。ザナク王は戦場の人なれど、賢明な御方と耳にしております。今ならば相応の条件で和を結べましょう」
 父王がふらつきながら一歩歩み寄ってきた。小柄で、周りの将軍たちより頭一つ分以上は小さな父。しかしユーナミアにとっては誰よりも大きな存在であった。叱られるだろうか、生まれて初めて。王女は僅かに身を強張らせたが、それは杞憂に終わった。父は目に涙まで浮かべながら、そっと王女を抱きしめたのだった。
「おお……すまぬ。すまぬ。お前にまでそんな心配をかけていようとは」
 何人かの重臣たちが口を開き、言葉柔らかに姫の意見に賛意を示した。曰く、ザナク王は利に聡い男、損害なしに要求を飲ませられるならそれでよしとするだろう、と。王は何も答えなかった。ただ、姫の背を軽く撫でさすっただけだ。
「姫よ。部屋で寛いでおりなさい。決してそなたに危害は加えさせぬから。やつらをこの手で蹴散らしてくれる!」
「父上!」
「さあ部屋へ戻りなさい。誰か! 姫を送り届けよ!」
 ユーナミアが会議室から押し出されるや、背後では侃々諤々の議論が再燃した。姫は蚊帳の外。それはそうだ。女の身。そのうえ軍事も政治もまともに学んだことはないのだ。それでも胸の奥にやるかたない悔しさが湧き上がり、ユーナミアは、奥歯を噛み締めた。
 しかし、後宮へ戻るその帰路、急ぎ足に追ってくる者がひとり。
「姫様」
 呼び止められて振り返れば、それは先ほど父王に罵られていた和平派の将軍であった。将軍は一声でそばの女官たちを追い払った。人気のない廊下にふたりきり。姫は自分でも驚くほど冷徹に、
「何か?」
「姫様の深慮、感服いたしました」
「そう……」
 姫はついと顔を背けた。いかに感心してくれようと、父王を動かせなければなんの意味もない。そのことを今のユーナミアはよく承知していた。
「お願いがございます。どうか説得を続けてくださいませ。陛下はあの通りの気性のお方。なれど姫様のお言葉ならば……」
「聞き分けてくださるというの?」
 駄々をこねる子供を相手するかの如き言い草に、将軍は寸時言葉に詰まった。が、ついには、慎重に頷いてみせた。
「仮にそうだとしても、あの様子では何日かかることやら」
「二、三ヶ月は保たせてみせます。それが私どもの仕事です」
「そして陛下を口説くのが私の仕事」
「その通りでございます」
「それでは間に合いますまい。日を追うごとに交渉は不利になりましょう」
 将軍は目を伏せた。王女がこれほど聡明であろうとは思いもよらなかったのだ。日頃の、よく言えば愛らしい、悪く言えば愚かな振る舞いからは想像もつかぬ。まるで別人。いや、一人の人間が、ある側面を誰にも見せぬまま隠し持っていただけなのか。
「御意の通り。残念ながら我が軍は敵に比して大いに惰弱。戦えば戦うほど敵は我々の実態を掴んでいきましょう。実力がわからず警戒されている今が一番狙い目なのですが……」
「何とかしてみせましょう」
「は?」
 姫の目は、不気味な仮面の奥で、何か異様な光を湛えているように見えた。文字通り百戦錬磨の将軍でさえ、怯まずにはおれぬような光。
「準備をしておきなさい。すぐに交渉は始まるでしょう……そうね、おそらく、お昼ごろまでには」
「まさか……」
 姫はそれ以上何も言わず、後宮へ入って行ってしまった。将軍は少しの間そこに立ち尽くしていたが、やがて、弾かれたように駆け出した。信じるに足ると判断した。となれば、残された時間はごく僅かしかなかったのである。

プリンセスには、貌が無い 1-2

 ベンズバレン王ザナクは戦場を好み、将兵と辛苦を共にするを好んだ。若かりし頃は一介の下士官として、長じてよりは一軍の長として、数限りない戦を経験し、内外に勇猛を以って知られた。というのも彼は先王の第二子に過ぎず、上には知に優れた兄がいたのだ。王位を巡って争うどころか、ザナクは、学があり機知に富んだ兄を尊敬さえしていた。いずれは兄がこの国を継ぐであろう。その時自分は兄の剣となり盾となるのだ。そう心に決めていればこその戦場暮らしであった。
 故に、兄の急死によって皇太子の位が転がり込んだとしても、ザナクは一欠片の喜びさえ覚えはしなかった。私には荷が重すぎる、と煩わしく思っただけだった。王位を継いで後、ザナクは前にも増して戦地に足を向けるようになった。取るに足らない盗賊の征伐や、隣国とのちょっとした小競り合いにさえ、国王御自ら出陣した。まるで王宮の玉座から逃げるかのように。重臣たちは揃って軽挙を諌めたが、ザナクはいつも笑って受け流した。私が死んだとて何程のこともあるまい。喜んで後任を務める弟たちが升で量るほどいるではないか、と。
 そんなザナクであったからこそ、今、この雪の戦場で傍らに立つ若き青年――いや、まだ少年とさえ呼べたやもしれぬ――には、ひとかたでない想いを持っていたのだ。
「ブラスカよ、この情況をなんと見る?」
 青年ブラスカは虎狼を思わせる眼で遠方の城を一瞥した。鼻は剣ヶ峰の稜線にも似て鋭く、発する声は飢えた山犬のそれであった。
「シンジル国は王威薄弱なれど要塞堅固。無理押しは陛下の将兵を大いに損ないましょう」
 つい先日成人したばかりの若者とは思えぬ物言いに、ザナク王は苦笑した。
 ――二人きりの時くらい、叔父上と呼んでくれればよいものを。
 だが、その融通の利かぬ性情が、そして狙い違わず真実を射抜く理性の目が、今はなき兄を彷彿とさせる。そのうえ、軍才だけはなかった兄と違って、この甥子はザナクと同じ世界に住んでいる。鉄と血のみが物を言う、戦の世界に。
 それを知らしめんとするかのように、青年ブラスカは先を続けた。
「私にお任せ下されば、正午を待たずにあの城を落として見せましょう」
 この大言壮語。ザナク王はたまらぬ快さに身震いさえした。
「兵は?」
「我が手勢のみで結構」
「勝算は?」
「十中の九」
「何をする気だ?」
 ブラスカは笑うばかりで答えなかった。好奇心がザナク王の心を揺らした。功を焦る若者の暴走、とは思えぬ。単なるホラ吹きのようにも。一体いかなる手品を使って、たった半日で一城落としてみせようというのか。
「任す。やってみるがよい」
 威厳を込めて言ったつもりが、口元の緩みは隠せなかった。ブラスカは王の少年めいた高揚をすっかり見抜いていたに違いない。