プリンセスには、貌が無い 1.かくして姫は全てを喪った(1)
"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A13"God Save the Princess!"/The Sword of Wish
1. かくして姫は全てを喪った
馬車は逃げた、森の悪路を。片時も休むわけにはいかぬ。背後には賊軍どもが迫っている。規律正しく名誉を重んじる上級騎士とはものが違う、人の皮を被った獣ども。捕まれば、荷台の乙女たちがどのような災難に見舞われるか――
乙女ふたりは互いに抱き合い、一枚の襤褸に縋るように包まり、ただひたすらに耐え続けた。酷い馬車の揺れはふたりの恐怖をさらに掻き立てたが、泣き言は言えぬ。汗に塗れ、自分達と同様に怯えながら、それでも必死に馬を操るオモワ老を見れば、一国の王女たる者が情けない姿を見せられようか。
と、オモワ老が何か物音を聞きつけ、弾かれたように振り返った。
「姫様! 伏せ――」
その頭を3本の鉄矢が貫いた。
爆ぜる肉、抉られた目、優美ささえ感じさせる動きで、ゆったりと舞いながら――オモワは倒れ、馬車から転がり落ちた。
悲痛なる絶叫を上げたのはルナル。爺の名を喚き身を乗り出したのはアルテマ。地面に転がったオモワの死体は見る見る後ろに遠ざかり、御者を失った馬車はさらに揺れを激しくした。咄嗟にアルテマは御者台へ跳び移り、転がっていた鞭を取って、見様見真似に馬を打つ。それは馬の恐怖を増幅する行いに過ぎなかったやもしれぬ。それならそれでもよい。
――逃げるのじゃ。死にたくはなかろう。
その打擲は悲鳴めいて夜に響いた。
――わらわは死にとうない!
その想いが通じたのだろうか、馬は僅かに落ち着きを取り戻した。王宮きっての名馬とオモワが請け負った馬だ。走ってくれさえすれば、賊軍どもの駄馬などに遅れを取りはしないはず。
これならば、とアルテマが胸を撫で下ろした、その時であった。
唐突に森が開け、前方に崖が姿を現した。ぞっと背筋に悪寒が走る。手綱を取って滅茶苦茶に引く。しかし到底間に合わぬ。全速力で走り続けていた馬は止まることも曲がる事もできず、そのままの勢いで車ごと崖から飛び出した。
宙に投げ出されたアルテマは、初めて味わう濃厚な死の絶望に身震いしながら、それでもルナルの姿を探し求めた。己と同じように放り出され、その細い手を必死にこちらへ伸ばしてくる、たったひとりの妹の姿を。
「ルナ!」
「姉様!」
呼びかけは夜空に交われど、伸ばした腕が交わることはなく。
ふたりは落ちた。崖下に広がる森、その深い暗闇の中へ。
次に目覚めた時アルテマはたったひとりで、森の中には何者かの気配が蠢いていた。木々の向こうの暗がりに、赤い剥き出しの炎が小さく見える。松明を手にした追手どもであろうことは考えるまでもなかった。
立ち上がるや、激痛に悲鳴を漏らす。落下した時に左脚を挫いたらしい――骨がやられているやもしれぬ。
ともあれ、声を立ててしまったのは失敗だった。彼方の灯火が急に動きを変え、ひととき戸惑いを見せた後、こちらに近づきはじめたのだ。再び迫った危機にアルテマは息を飲み、首を振り回すようにして妹を探した。近くにいても良さそうなものだが、まるで姿が見えぬ。枝の切れ間から差し込む月明かりのみでは、とても探し出せそうにない。
ならば、それよりも。
「きゃーっ!」
わざと声を振り絞って悲鳴を上げ、アルテマは森の中を逃げ始めた。少し進んで、また声を出す。松明は確かにこちらに向かってくる。
これでよい。妹はあの近くに倒れているはず。自分が追手を引き寄せれば、それだけルナルが助かる見込みが増すではないか。
一歩ごとに襲い来る足の痛みは凄まじいものだったが、それでも立ち止まるわけには行かぬ。この一歩が我が身を助く。と同時に妹の命さえ繋ぐのだ。脂汗の伝い落ちる瞼の下で、アルテマは決意の視線を前へ向けた。逃げるのだ。なんとしても!
だが、相手は鍛え上げられた傭兵だ。こちらはやっと成人したばかりの小娘。不慣れな森の中、足を痛め、さらには灯りさえない。逃げ切ることなどできようか。
木の幹に寄りかかりながら、必死の思いで逃げるアルテマの前に、ついにひとりの兵が現れたのである。
「見つけたぜ、お姫さま……」
墨を流したかのような闇の中、月光に青く浮かび上がる男の顔は、これまで見たいかなるものよりも醜く、歪んでいた。
醜怪なるものへの憎悪が顔に現れてでもいたのだろうか。男は一層穢らわしく嗤い、
「そう邪険にするなよ。楽しくやろうじゃないか、なあ」
「寄るな! 痴れ者!」
姫は甲高く一喝した、が――
男が飛び掛かる。姫は逃げた。しかし足の傷から電流の如き痛みが走り、一歩さえ進むことなく転び倒れた。黒い影がのしかかってくる。乱暴にスカートを捲り上げる。
――何をする気だ!?
姫は知らなかった。然るべき教育を受け、数々の知識を身に着けていたとはいえ――ある道においては、いまだ無知ゆえの美を保ち続けていたのだ。しかし恐怖だけは知っていた。他の何も知らずとも、これから来る猛烈な暴力は男の異様な興奮の中に読み取れたのでたる。
「やめよ! やめっ……」
命令は無視され、暴れる腕は頭の上に押さえ付けられた。そして彼女は初めて知った。
この世には、止めろと頼んでも止めてもらえぬことがあるのだと。
悪と粗暴の剣が、捩じ込まれた。姫の、小さな扉の奥へと。
絶叫。挫いた足などとは比べ物にならぬ痛み。と同時に得体の知れぬ不快が彼女を襲った。何をされた? 何故この男は必死に腰を振っている? この醜悪な笑みは一体なんだ? 恐怖に、嫌悪に、暴れれば暴れるほどに男は悦び、いきり立ち、獣じみた呻き声さえ発するのだ。
一突きごとにいや増す痛みの中、姫は悟った。これは男の快楽の行為。自分は今、そのための玩具にされている。いいように玩ばれている。こんなくだらない男によって!
涙が、零れた――痛みにか。いや。
味わったことのない痛烈な屈辱のために。
「ああ、いいぞ、いいぞ、お姫さま」
男がなにか言っている。
「いや元お姫さまか、王さまが死んだいまじゃあな。ああっ……」
王が死んだ。
その一言で姫の脳裏に蘇った。死に際の、父王の姿が。