資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

プリンセスには、貌が無い 改1-1

"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A13"God Save the Princess!"/The Sword of Wish


 今は昔、北の小邦に一対の仮面が伝わっていた。
 いずれも額から目までを覆う半面で、ひとつは雪の純白、いまひとつは新月の黒。金属とも石ともつかぬ未知の素材で造られており、触れれば指が凍り付くほどに冷たい。表面に施された細工は精緻を極め、光の当て方次第では氷塊さながらの澄んだ煌めきを見せたという。
 旧き戦乱の時代に何処かより略奪されたと思しきその宝物は、それぞれ“白痴”“賢者”なる故知らぬ名を与えられ、長らく宝物庫の奥に眠り続けていた。他の宝物が交渉材料に、贈り物に、あるいは王の物持ち自慢にと駆り出される中、ふたつの仮面だけがいつも手付かずのまま取り残された。
 というのも、いつの頃からか仮面にまつわる怪しげな噂話が囁かれるようになったからである。
「あれは尋常のものではない。神か魔の手になる呪物だ。そうとしか思われぬ」
 仮面を見る機会を得た幾たりかの幸運な(あるいは不運な)者達は、口を揃えてこう評した。笑みでも憂いでもない、およそ人間味を感じさせぬ曖昧な表情が、向かい合う者に得体の知れない不安を懐かせるらしかった。にも関わらず、何故か何度も目を向けてしまう。惹きつけられずにはいられないのだ。
 それは単に、意匠の妙が生み出した魔力であったやもしれぬ。だが細工師でも魔法使いでもない王宮の住人たちにとって、それは紛れもなく魔法の仮面なのであった。
 しかし、プリンセス・ユーナリアはこの面が気に入っていた。気になっていた、という方が正しいやもしれぬ。何かの折に宝物殿で一目見て、すっかり仮面に魅入られた。以来、正体不明の居心地の悪さに悩まされぬ日はなくなり、熱烈な情愛さながらに恋い焦がれ、とうとう父王に我儘を言って、半ば強奪気味に仮面を譲り受けたのであった。
「流行りのドレスよりあんなものが良いとはな。年頃の娘は度し難い」
 父王は苦笑しながら左右に零したものだ。
「この余から宝物を奪おうとは。この豪胆さはまさに王者の気質よ。いずれ迎えるべき婿殿はさだめし苦労するであろう」
 己の行為が王宮の心温まる笑い話にされていることは知っていた。しかし姫は一顧だにしなかった。略奪した宝に夢中であった。後宮の寝間に小さな壁掛け金具を取り付けさせ、そこに白黒一対の面を並べた。朝(あした)に声掛け、夕(ゆうべ)に微笑み掛けた。優雅なれど無機質で不気味な仮面は、いかにも乙女じみた寝間の調度には到底溶け込まず、侍女や乳母たちをたいそう怯えさせた。しかしユーナリアはそれすら気にも留めなかった。
 まるでこの仮面に向き合うことが、己の責務であるとでもいうかのように。
「きれい」
 あるとき、ユーナリアはふたつの仮面と見詰め合いながら囁いた。恋人に向けるかの如く、甘く、密やかに。己の発した声であるにも関わらず、ユーナリアはそれを耳にして得も言われぬ陶酔に導かれ、小さく身震いをした。下腹部に何かしっとりと潤むような疼きをも覚えたが、いまだ無知の美しさを保つ乙女のこと、それが如何なる感情であるかは自覚できずにいた。
「あなた、きれいね」
 仮面たちが揃って目元を緩め、微笑むかに思われた。
 ユーナリアは白痴の仮面を手に取り、戯れに己の顔へ着けてみた。覗き穴は糸のように細く、表面に刻まれた複雑な紋様の筋に偽装されている。ゆえに仮面越しに見える世界は極めて狭く、暗く、そのうえおぼろげであった。にも関わらずユーナリアは妙な――この心持ちをなんと呼ぶべきであろう?――知的興奮を味わっていた。
 ――私は世界の全てを見た。
 そう錯覚させるほどの何かが、このぼやけた視界の中に感ぜられたのである。
 ユーナリアは窓を押し開けた。厳寒の冬のことなれば、外は一面の雪景色。遥か彼方の稜線からすぐ眼下の庭園に至るまで白に覆われざるものはなく、その間に横たわる針葉樹林は死を思わせる静寂に包まれている。
 吹き込んでくる冷気さえ心地よい。ユーナリアは寝巻き一枚の身体を風に晒して、擽られるままに任せた。
 そうしているうちに姫は森の中にひとつ、何か動くものを見て取った。遥か遠くの、それも素早い動きであったので、彼女には黒い影のようにしか見えなかったが。
 ――何かしら?
 考えとも呼べぬ考えが閃き、思わずくすりと笑みを零す。
 ――うさぎ。うさぎさんが雪に戯れているのね。それとも、お友だちのパーティに遅れそうで慌てているのかしら。
 実に見事な推察と思われた。己の洞察力に気を良くしたユーナリアは、もっとよく確かめてみようと、仮面を付け替えた。白痴の仮面から賢者の仮面へ。何故、とは問うなかれ。“賢者”ならば、より素晴らしい思索をもたらしてくれると思ったのだ。
 賢者の目も白痴同様、細く不確かなものに過ぎなかった。が、確かにそれは、ユーナリアに先ほどとは全く異なる、より正確で、より恐ろしい結論を導いたのである。
 森の中に再び見えた影は、うさぎなどではなかった。他のどのような獣でも。しかし、何より最も獣らしいものではあっただろう。
 ――兵士。
 無知なる姫は、何故かこの時、遠い昔にひと目だけ見た忌まわしい紋章を思い起こすことができた。恐怖に震え上がるより一瞬だけ早く。
「敵だ」

プリンセスには貌がない 1-1

 今は昔、さる王宮にひとつの仮面が伝わっていた。
 旧き戦乱の時代に何処かより略奪されたその宝物は、金属とも石ともつかぬ未知の素材でできていた。表面はのっぺりと滑らかで、触れてみれば指が凍えるほどに冷たい。およそ温もりを感じさせぬ曖昧な表情は、見るもの全てに漠たる不安を感じさせずにはいなかったという。
 尋常のものとは思えぬ、とは専らの噂。しかしプリンセス・アルテマはこの面が妙に気に入っていた。気になっていた、という方が正しいやもしれぬ。何かの折に宝物殿の仮面を一目見て以来、正体不明の居心地の悪さに悩まされぬ日はなくなり、とうとう父王に我儘を言って、半ば強奪気味に譲り受けたのであった。
「流行りのドレスよりあんなものが良いとは。年頃の娘は度し難いな」
 父王は苦笑しながら左右に零したものだ。
「しかし、欲しい物を是非にも奪うあの気概は、まさに王者の気質よ。いずれ迎えるべき婿殿はさだめし苦労するであろう」
 己のしたことが王宮の心温まる笑い話に変えられようと、姫は一顧だにしなかった。略奪した宝に夢中であった、ある意味では。乙女らしく飾られた――その愛すべき調度の多くは父王の見立てによるものであった――後宮の自室に、小さな壁掛け金具をとりつけさせ、そこに仮面を引っ掛けた。物言わぬ無機質そのものの貌を、朝に睨み、夕に見つめた。見れば見るほどに不快が募る。それでも見ずにはいられぬ。見ることで僅かばかり不安が和らぐ気がした。部屋に入り込んだ気色悪い毒虫は、家具の裏に隠れてしまわれるより、目の前で睨み合っている方がまし。そんな心持ちであった。
「汝は誰ぞ」
 一度だけ、口に出して仮面に問うてみたことがある。
「答えられぬか、痴れ者め」
 仮面の沈黙を敗北の証と見做したものであろうか。あるいは自分の愚かな行いを恥じたのであろうか。それからというもの、仮面に心煩わされることはなくなり、程なく面は数々の調度の一部として部屋に溶け込んでしまった。そしてそれっきり、二度と顧みることはなかったのである。

 あの雪の朝が訪れるまでは。

獣狩りの獣 2


「だいじょっ! ……ぇげっ。ぶ。だよ……。ぼっ。ごぼ。」
 どう見ても大丈夫なわけがなかった。
 3人連れ立っての山歩きも今朝で3日目を迎え、カジュの疲労はとうに限界を超えていた。目の下に浮き出た隈は普段の百万倍は色濃く、汗にまみれた全身は服のまま水浴びでもしたかのよう。フィールドワーク用の杖だけを頼りにここまで来たが、ついにそれさえままならなくなった。
 それでも彼女は、ひたと仲間たちを見据えて言い張るのだ。まだ大丈夫、と。
 見かねた緋女が――こちらは汗一つかいてはいない。ああ麗しき相棒よ、どうしてそんなに頑丈なのか!――カジュに背中を向けて、ひょいとしゃがみ込んだ。
「乗れよ」
「は。」
「おんぶ」
「冗談じゃないね。足手まといにはならないよっ。」
 無論、もう一歩も歩きたくないのがカジュの本音ではあったが、彼女のプライドがそれを許さない。しかしその内心を見透かすかのように、先頭のヴィッシュが振り返り、
「無理するなよ。おぶってもらえ」
「やだ。」
「狩場に着く前にダウンされるほうが困る」
「ほら! 乗れっつうの」
 二人がかりで迫られて、カジュは後ずさりたいところではあったが、もうその数歩さえ足が動こうとしなかった。残る力を振り絞って無い胸を張り、仲間たちに指つきつけて、
莫迦におしでないよ。痩せても枯れても天才美少女術士カジュ・ジブリール、ひと様の背中を借りる無様は、断じて、断じて見せられ

 見せてしまった……。」
 数分後、山道には、先に立って藪を切り拓くヴィッシュと、相棒を背負った緋女の姿があった。カジュは目の前のたくましい背中に鼻を沈め、先程からぶつぶつと呪詛を垂れ続けである。
「おんぶされちゃった……。
 ボクは恥ずかしい……。」
 ヴィッシュは苦笑して、
「山歩きは大の男でも音をあげるからな。ま、ここまで頑張っただけでも……」
 というのは慰めのつもりだったのだが、かえってカジュに睨まれてしまった。キョトンとしているうちに彼女はそっぽを向いてしまう。わけがわからず、助けを求めた先は緋女であったが、そちらでも白い目で見られるばかりだ。
「前向いてろバカ」
「……俺なんか悪いこと言ったか?」
「ほんっ……とにデモクラシーねえなテメーは!」
「デリカシー。」
「それよ」
「確かによく言われるけどな……」
 彼の性格では思いもよるまい。彼に向けた好意が、カジュに虚勢を張らせていようとは。――と言っても色恋ではない。親子の情ともやや異なる。相手と対等の人と人でありたいがために、格好の悪いところを見せたくない、美しく颯爽とした自分でいたい。背伸びした少女の心持ちだ。
「緋女ちゃんボクは悔しいよー。」
「うんうん。今度走り込み一緒にやろうな」
 ――納得いかん。
 と、ヴィッシュが頭を掻いた、その時だった。
 凄まじい獣の咆哮が森の木々を震わせた。
 小鳥が驚き一斉に飛び立つ。緋女は早業で剣を抜き、カジュの指先には火球が灯る。が、ヴィッシュは二人を手で制し、ただじっと耳を澄ます。
 唸りとも呪詛ともつかぬ不気味な声が、再び森中に響き渡る。
「なにあれ」
「大丈夫だ、任せろ」
 ヴィッシュは大きく息を吸い込んで、あらん限りの声を振り絞った。
「サッパー! カ・ルー!」
 その叫びの木霊も消えた頃、三度目の獣の声が応答した。すると、これは言葉なのか。そう思って聞けば、確かに三度目の咆哮は何やら言語めいて聞こえなくもなかった。曰く、
「ヤーレ!」
 と。
 緋女が背中のカジュに目を向ける。
「何語?」
「知らん。」
「山言葉。古狩人の符牒。ま、暗号みたいなもんだ」
 ニ、と子供のように笑い、ヴィッシュが振り返る。
「喜べカジュ、到着だ。歓迎してくれるとさ」

獣狩りの獣 1

「追い込め(オット)ゴロー! ゲイドーック!」
「委細承知(ヤァーレ)!」
 エッボの声は剣ヶ峰の稜線からにわかに湧き立ち、ゴローの野太い山言葉がそれに応えた。すぐさま駆け出したゴローの姿は全躯に怒りをみなぎらせた猪を思わせ、その猛然たる殺気には、森の鳥獣、草木、神霊の類に至るまでが恐れおののき息を潜める始末。
 ――それでいい。邪魔してくれるな、何人も。
 ゴローは細く息を吐き、山刀の柄に手をかけた。
 ――今日こそ奴を仕留めるのだ。ゲイドック。さもなくば、わしは何処へも行けぬ。
 大いなる禍霊森(まがついもり)さえ、今や彼の庭に過ぎぬ。森の全てを知り尽くした。目を瞑っていても駆け抜けられるし、追われた獣がどの谷筋に降りるかも手に取るように分かる。それだけの自信をつけるために、ひたすら修練を積んできたのだ。
 今ならやれる。奴をこの手で狩り殺せるはず。
 唐突に木々が途切れ、谷筋へ出た。天幕をかなぐり捨てたかのように視界が開けた。伸び放題に伸びた髪と眉の奥でゴローの目がギラリ輝く。髭に覆われた口元が思わず緩む。
 狙い通り。黒黒としたゲイドックの巨体が、森の中から姿を現したのだ。
「ゲイドック!」
 雄叫びを聞きつけるや、ゲイドックは長い首を持ち上げ、山猿めいた毛むくじゃらの腕をぶら下げ、ひたとゴローを見据えた。危険な相手か否かを見極めるための、野生動物特有の動き。そのとき獣の動きが止まる。ほんの一瞬。だが獣を射抜くにはそれで充分。
 放たれた矢は、狙い違わずゲイドックの眉間に突き立った。
「仕留めた(シャッタ)!」
 ゴローは思わず歓声を上げ――
 直後、その顔が凍り付く。
 獣の額を貫いた、かに思われた矢は、その寸前で盾に阻まれていた。淡く白く光り輝く《光の盾》に。
 ――魔術だと!?
 ゲイドックが走る。ゴローを轢き潰さんと迫ってくる。その行く手にある木々が、岩が、《光の盾》を叩きつけられ粉々に砕け散っていく。背筋が震えた――もしあんなものを喰らったら。
 ――逃げろ! 殺される!
 本能が喚き散らせども体が動かぬ。鍛え上げたはずの四肢は震えるばかり。まるで、狩人に追い詰められた獣のように。
 と、そのとき。
「ゴロー!」
 咆哮が聞こえたかと思うや、誰かが彼の前に躍り出た。



勇者の後始末人
第4話“獣狩りの獣”

ザナリスの昏き竜姫 改 1-2

 一時、ページを繰る手を止めて、彼は窓の光景に見入った。美しい、と思うことさえ忘れていた。日中には白亜の煌めきを見せた尖塔たちが、赤銅色の空に溶け込んでいく。その背後には忌々しくも壮大な高壁。そしてさらに向こう側、何処までも果てしなく広がる大地――その鮮やかに浮かび上がる赤土の地平は、まるで一面に流された血潮のよう。
 〈外(ウェイスト)〉。学園都市(ハチノス)では、ただそう呼んでいる。
 教科書に曰く、そこはあらゆる悪徳と荒廃に覆われた呪いの地である。邪悪な妖魔と醜怪な汚泥を除けば一つとして根付くものはなし。千の千倍を千倍したより遠くまで、草木ひとつ生えぬ不毛の砂漠が広がっているのだ、と。
 そうかもしれない。確かにここから見えるのは、生物の活動を拒む荒野ばかりだ。
 だが――いささか頭がおかしいのだろうか?――レンには〈外〉が、やけに美しく見えるのだ。
 計算によると、塔から見える地平線までは僅か20パルナの距離しかない。その先はどうなっているのだろう? 教科書通り、不毛の地がどこまでもどこまでも続いているのだろうか。あるいはどこかに生物がいて……ことによると、この学園都市(ハチノス)のような街が他にもあるのではないだろうか?
 レンはひとり、静かに微笑んだ。思い出し笑いだ。今日、この特別教室に送られたのは、まさにそうした〈外〉についての独自見解を、うっかり教師の前で喋ってしまったかからなのだ。
 そんな誤った考えに囚われるなど、と教師は言った。
 ――確かめたことなどないくせに。
 心底の軽蔑を込めてレンが鼻を鳴らした――その時だった。
 おかしなものが見えた。
 初めは目の前を虫でも飛んでいるのかと思った。が、虫にしては一点に留まりすぎる。よくよく目を凝らしてみれば、その点は目の前ではなく、遥か遠く――三本牙の塔の間に浮かんでいた。思わず大切な本さえ取り落とし、レンは窓にへばり付いた。綱。そう、綱のようなものが塔の間に渡され、それにぶら下がって、誰かが空中を移動している。
 レンが口あんぐりと開いて見守っていると、その人物は驚くべき素早さで綱を渡りきり、三本牙の三本目へと辿り着いた。バルコニーに立ち、何かの道具をこちらへ向ける。
 細い風切り音が聞こえたかと思うと、何かがレンのそばの壁に突き立っていた。見ればそれは一本の矢。矢の後ろには細い綱が繋がれている。
「あ!」
 レンは思わず声を上げた。先程の人物が構えていたのは、弩か何かに違いない。それで綱を他の塔へ渡して……
 ということは、奴はこちらへ来る。
 一体何者だろう? なぜこんな危険な真似を? 得体の知れない闖入者に備え、レンは武器を探そうとして、果たせず、結局インクペンシルと本一冊を手に取った。投げつければ、少しは怯んでくれるかもしれない。いや、望み薄であろうか。
 身構えるレンの前に、綱渡りの男が姿を表した。
 よ、と小気味よい掛け声とともに、窓から中へ踊り込んでくる。見れば随分小柄な男だ。というより若い。歳はおそらく12、3。まだ少年と言ってよかろう。少年はレンに気づくと、感情のままに顔をしかめた。
「えー。なんだお前」
 その無遠慮な言い草を聞いて、レンに怒りが湧いてきた。おかげで怯えは嘘のように消え失せた。ずいと前に踏み出しさえして、レンはあらん限りの声を振り絞った。
「お前こそなんだ!」
「泥棒さ」
 レンは言葉を失った。
 泥棒。他人のものを盗み、それを生業とする人々、らしい。歯に物の挟まったような言い方しかできないのは、本の記述でしか知らないからだ。泥棒なんてものは学園都市(ハチノス)にはいない。そのような悪徳は遠い昔、狂気の帝国時代に放逐され、今では〈外〉にしか存在しないはずだ。
「まさか……君は、〈外〉……から?」
「興味津々らしいね」
 嫌らしい笑みを浮かべて、少年が手近な椅子にどっかりと胡座をかいた。
「いかにも、俺は〈外〉の人間。
 俺たち、いい取引ができるんじゃないかと思うんだけど」

ザナリスの昏き竜姫 改 1-1

1 外(ウェイスト)からの少年


 ――ついに盗んで来てしまった。あの娘を救い出すためのカギ。
 レイは最前からベッドの脇にひざまずき、身をくの字に折って震えている。今になって猛烈な怯えとためらいが大量の脂汗もろとも襲ってきた。だが、もう遅い。彼はやった。やってしまった。後悔は先に立たず――ならば、後悔が身体を凍りつかせるより早く、やるべきことをやりきればいい。
 他の個室(セル)の連中に見られなかっただろうか? おそらく大丈夫だ。厳格な規則に縛られた学園(ハチノス)のこと、ひとたび消灯時刻を過ぎてしまえば、街全体が動力を落とした魔導機械さながらに寝静まる。お隣さん(ジョニー)も、斜向かい(スタルカス)も、勤勉の権化たる委員長様(ダンクレア)でさえ、今は深い夢の中にいるはずだ。
 目覚めているのはただ一人。
 レン・7783をおいて他にない。
「大丈夫、僕はやれる……
 僕はやれる、僕はやれる、僕はやれるっ……」
 他に聞く者とてないというのに、レンは何度も繰り返し、同じ言葉を口に出した。知っていたからだ。口にしてしまえば、心と身体は言葉に引っ張られることを。そしてまた、気付いてもいたからだ。できることならこのまま眠りについて、なんの代わり映えもしないいつもどおりの朝(あした)を迎えたい――そんな考えに自分がなびきかけていることに。
「やらなきゃ」
 小さく、しかし吠えるように力強く、彼は一声呟いた。立ち上がったその姿に、運動不足気味の貧弱な学徒の面影はない。真っ直ぐに伸びた四肢と背筋は、さながら研ぎ澄まされた白銀の剣。
「やるんだ。
 あの娘は。ジェットは。僕が救うんだ!」

  *

 ことの始まりは、数日前に遡る。
 その日。高壁の向こうから黄ばんだ太陽が射し込み、立ち並ぶ六角形の塔どもにその光輪が掛かる頃、レンは特別教室に叩き込まれた。第42教室棟の最上層にあるあの部屋だ。
 レンは、ここに来るのが嫌いではなかった。
 本来名誉の聖域であったはずの特別教室が、事実上の懲罰房に成り下がったのは、一体いつのことなのだろう。学園都市の大いなる校則に違反したもの、あるいは教師に反抗したものは、委員長の責任において種々のペナルティを課せられる。中でも最大級に重いのが、特別教室での特別補習だ。たいていは恐ろしく困難な課題が出され、それが終わるまでは食事さえ与えられず、ひたすら勉強に打ち込むことを強制される。短い者で2、3日。長い者は――永遠に。
 特別教室から戻った生徒の多くは、深く深く「反省」をして、二度と再び特別教室行きにならぬよう心掛けるようになる。校則を守りさえすれば、少々の不自由に耐えさえすれば、それで最悪の自体は避けられるのだ。安い買い物と言えた。普通なら。
 だが、ここには充実した書架(ライブラリ)がある。紙やインクペンシルの用意もたっぷり。そして何より、小うるさいクラスメイトや教師や委員長はここには居ない。学園都市の喧騒は遥か下。誰にも邪魔されず好きなだけ読書ができる。勉強できる。こんな空間が他にあろうか。
 無論、少しばかり腹は減るが――それこそ安いものである。少なくとも、レンにとっては。
 そんなわけで、レンは度々ここを訪れた。不安げにふらつく高速エレベータにも驚かない。牢番、もとい管理担当教師のほうでも、もはや部屋の使用規則を説明さえしない。
 ここに監禁されたのが午前のこと。前回目をつけていた稀覯本を読み耽り、気づいた時には、西の“三本牙”――レンがつけた名である。一際高い尖塔が、三本寄り添うようにならんでいる――の隙間に、夕陽が沈み始めていた。

ザナリスの昏き竜姫 1-6

  *

 僕らは走った。どこへ行くべきかも分からずに。とにかく逃げねばならない。外へ、鮫と魔杖兵の戦場から一歩でも遠くへ。だがさんざん通いなれたはずの教室棟は、混乱した僕らにとっては迷宮に等しい。あてもなく彷徨っているうちに、他のクラスメイトとは完全にはぐれてしまい、僕はひとりになっていた。
 どうして。
 僕は自問する。問うべきこと、分からないことを積み上げれば、ハチノス全体を飲み込む大山ができる。あのサメは一体なんだ? なぜ魔杖兵と戦っている? どうしてこんな目にあって……そもそもここは一体どこだ!
 最後の問だけは、なんとか答えが見つかった。
 僕はどういうわけか中庭に飛び出してしまったのだ。
 魔杖兵の放つ閃光と、滴り落ちる鮫の血に彩られた、見とれるほどに鮮やかな戦場の只中に。
 と、僕の行く手を阻むように、鮫が完全に墜落した。凄まじい砂煙が僕の目を苛む。肺を粉塵に埋め立てようとする。僕は涙ながらに咳き込んで、ふと、不思議な物音を聞いた。
 粘質で湿った破砕音、不快なはずなのにどこか懐かしく、人肌めいた生温さを感じさせる音。興味を惹かれ、細く目を開き、そこで僕は目撃した。
 一人の少女が、鮫の身体の裂け目から、僕に向かって投げ出されたのだ。
 僕は慌てて少女を抱きとめた。彼女の濡れた黒髪が僕の肩にかかり、くすぐり落ちていく。表情の読めぬ、だが目を離せないほど繊細な顔立ち。黒玉(ジェット)を思わせる澄み切った、しかし焦点の合わぬ瞳……
 何より異様だったのは、彼女の胸元から発して、全身を後ろ手に縛りあげる、純白の帯の如きもの。
「な……に……?」
 僕が彼女の薫りに参ってしまって、言語能力を喪失した、その時だった。
「動くな!!」
 怒号が僕らを取り囲む。
 見れば、数十人の〈魔杖兵〉たちが、一斉に魔術杖の狙いを定めていた。
 他ならぬ、僕ら二人に向かって。

(続く)