資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

ザナリスの昏き竜姫 1-5

  *

 狂乱、という言葉は辞書で見た。平和と安寧の権化たるハチノスでは使いどころのない無駄な語彙だった。今日、この瞬間までは。
 経験したことのない恐るべき振動が次々に教室を襲い、僕らは泣き叫んだ。逃げなければ! 本能がそう告げていた。僕は新たな知見を得た――本能の言い分がどうであれ、とっさの時には身体が耳を貸さないものなのだと。
 ともあれ僕たちはすっかりすくみあがり、わめきながらその場にへたり込むしかなかった。少々気の利いたものでも、せいぜいが机の下に頭を突っ込んだ程度だ。やがて振動が収まり、みんながざわめきながら窓に寄っていく。僕も例外ではない。
 そして、事態を把握した。
 鮫。
「わあ!」
 僕は情けない悲鳴を上げて尻餅をついた。窓のすくそばを、巨大な鮫が通り過ぎていく。何を言っているのか分からないだろうね。当然だ、僕にも分からない。
 教室ひとつを丸呑みにするほどの巨大な鮫が、悠然と空を泳いでいる。
「敵だ!」
 誰かが叫んだ。クラスメイトの誰か、あるいは外の魔杖兵だったかもしれない。それを合図にしたかのように、魔杖兵たちが無数の《光の矢》を斉射する。人間なら一撃で風穴を開けてしまう恐るべき光線が、鮫の横腹に食いこんだ。
 鮫がぐらつき、聞く者の耳を引き裂くような悲鳴を上げて、傾きながら墜落を始める……
 僕らのいる教室棟に向かって!
「逃げろォ!」
 誰かの叫びが全員の身体を突き動かした。逃げ惑う生徒たち。僕も後ずさり、逃げ出しかけたところで、委員長(ダンクレア)がつまづき倒れているのに気づいて、力任せに彼女を抱き起こした。ふたりもつれ合うようにして走る。鮫はみるみる背後に迫り、
 轟音。
 僕と委員長は廊下まで吹き飛ばされ、“岩ならぬ岩”の壁にしたたか背中を打ち付けた。あとから飛んできたドアが僕らの上に覆いかぶさり、他の瓦礫を防いでくれた。
 生き延びた。と、胸をなでおろすと同時に、僕は頭の中に疑問符を浮かべていた。なんで、委員長など助けてしまったんだろう。やはりそうなんだ。とっさの時に、頭と身体はちぐはぐになるものなんだな。

ザナリスの昏き竜姫 1-4

 僕は小さく鼻を鳴らして、黒板の方に目を向けた。ちょうど先生がやってきたのも、不愉快な会話を打ち切るには好都合だ。無論、また一日、退屈極まりない平和な日常の始まりではあって、その意味では極めて不都合と言えたけれども……

  *

 1限、下位帝国語文法。2限、線形代数学。3限、魔術式構造概論。4限、神学(A)。よりにもよって僕の苦手科目ばかり。それでも背筋を正して授業を受けるのは、ひとえに姿勢不適切の罰則が怖いからだ。
 しかし、頭の中で、僕ならぬ僕がこう言っている。
 これがなんの役に立つ? お前はこれを学んで何になろうと言うんだ?
 先生たちの説くところによれば、12年次までの成績如何で人生が大きく左右されるという。好成績なものはハチノスの中枢を制御する〈管理者(ケーニギン)〉にも成れようが、そうでないものは低層構成員として悲惨な一生を終えることもある。上への憧れ、下への蔑み。先生方が武器にするものは決まってそんなところだ。熱心な進路指導、まことにありがたい。
 念のため付け加えておくが、これは皮肉である。先生たちともあろうものが、生徒のために熱心になることなどありえない。彼ら彼女らが必死になるのは、ただ自分に課せられたノルマのため。何人の生徒を「中枢」に上げられるかが、彼ら自身の成績になる。力も入ろうというもの。ハチノスに、この世界そのものに、力と存在を認められるために。
 僕らはみんなハチノスの囚われびと。先生だって例外じゃないってわけだ。
 僕らは辛い日常をこなして、自分の知識と技術を高める。なんのため? 世界(ハチノス)に貢献するため。〈管理者〉にでもなろうものなら、今度は子供を作る権利と義務が生じる。作った子供は学園で学び、彼らがまた子供を作り……
 ハチノスのため。全てはハチノスの維持と発展のため。
 どうして?
 なぜ僕たちは、ハチノスを守らなければ、発展させなければいけないんだ?

  *

 と、いうようなことをつい口に出してしまったら、スタルカスとジョニーはまともに青ざめた。ジョニーなどは怯えるあまり、両手を動員して僕の口を塞ぎ、強引に黙らせさえした。
 規律にうるさい教室とはいえ、昼食休憩の間はさすがにざわついている。スタルカスが油断なく部屋中に目を走らせる。こちらの声を聞きとがめた者はいないようだ。最も注意すべき相手、ダンクレア委員長殿も含めて。
「お前何言ってんだよ」
 とスタルカスが小声で囁き、ほとんど同時に、身をすくめて凍りついた。窓の外の廊下を、規律正しい一団が行進していくのが見えたのだ。本物の魔術杖を肩に担ぎ、暗銀をあしらった優美な甲冑に身を包み、一糸乱れぬ足運びで、ガラス一枚隔てた僕らのすぐ横を過ぎ去っていく。彼らの背中がすっかり消えてしまって、ようやくスタルカスは胸を撫で下ろした。
「もし〈魔杖兵(アーマイゼ)〉に聞かれでもしたら」
「きっと共感してもらえるよ」
 ジョニーに口を塞がれたまま、僕はもぐもぐと呑気な意見を述べた。ついでにジョニーの手のひらをペロリと嘗めてやる。彼が子犬のような声を上げて、ようやく拘束の手を引っ込めた。
「ジョニーはくすぐったい」
「くすぐられたかったろ?」
「そうかも」
「真面目な話だろ、これ」
 スタルカスは不満そうだ。僕としては完璧に真面目なつもりだったのだが。少なくとも、委員長のおでこの広さが完璧なのと同程度には。
「今まで何人〈脱落〉したと思う? お前はただでさえ特別教室経験者なんだから……」
「あそこで学んだことはひとつだけ。肉体的精神的な暴力なんて最低ってことだ。そんなものに頼らなきゃ維持できない世界ってなんだ?」
「お前、疲れてんだよ。これ以上目をつけられるようなことするなよ、なあ、頼むから」
「この檻の中だけで、僕たちは檻(ハチノス)そのものを再生産し続けている。そんなことになんの意味があるんだ」
「一体誰にそんなこと吹き込まれたんだ」
「自分で考えたんだよ!」
 うっかり僕は声を荒げてしまった。
 椅子を蹴って立ち上がり、教室中の視線が集まるのも構わず、胸の中に溜め込んでいたものを思うさま吐き出した。
「ここは本当に僕らの居場所なのか? 本当は……もっと別の場所にたどり着くべきなんじゃないのか? あの壁の向こうの、広い広い〈砂漠〉を越えた、さらにその奥のここじゃない何処かへ!!」
 教室中を満たした静けさは、氷さながら。
「お前……」
 スタルカスがなにか言いかけた、その時だった。
 運命の号砲が唸りを上げて、教室棟そのものを下から突き上げたのは。

ザナリスの昏き竜姫 1-3

  *

 ダンクレア委員長はいつもの如く、完璧に着こなした制服の上に、完璧に髪を後ろに撫で付けたおでこを乗っけて、完璧な仁王立ちでもって僕の前に立ち塞がった。ゆうに頭2つ分は身長差があるとはいえ、彼女に下から睨みつけられると僕はどういうわけかすくみあがってしまう。僕に限った話ではないが。
「7783、314秒の遅刻。プラス服装規定違反甲種軽度です。弁明は?」
「ない、ことにします」
「よろしい、ことにします。規則によりペナルティはペーパー35番から44番。期限は今夜まで」
 僕の溜息はこれみよがしだったが、委員長は眉一つ動かさない。彼女はハチノスの複雑怪奇な規則の代弁者、にして執行者だ。その運用の徹底ぶりは舌を巻くほどで、それゆえ教師たちもすっかり彼女を信頼して、ほとんど独裁に近い権限を与えている。噂によると、ハチノスの規則そのものにアクセスする許可まで得ているらしく、ルールを都合の良いように改変すらしているとか。彼女はここの女王。逆らうなど愚の骨頂。
 一方、ハチノスの化身であるためか、僕ら個人の感情には無頓着であるようで、たとえば、目の前であからさまに溜息をついたりしても、それを咎めることはないのである。
 僕が嫌そうな顔をするばかりでいつまでたっても返事をしないので、ダンクレアは片足を雄々しく踏み鳴らし、胸の前に腕を組んで、少しばかり声を荒げた。
「復唱せよ!」
「はい! ペーパー35から44、今日中にやりまあす!」
「私に直接提出しなさい。深夜になっても構いませんが、必ずやるように。よろしいか?」
「よろしいです」
 委員長は剣の翻るように僕に背を向け、そのまま自分の席に行ってしまった。
 僕がすっかり肩を落として席に着くと、隣のスタルカスがいやらしくニヤつきながら、指のサインを送ってくる。これは私語のできない局面で意思をやりとりするために僕らが考案した一種の言語で、五本の指の組み合わせだけで、日常会話程度ならなんとかこなすことができる。
 スタルカスの右手曰く、
『バーカ』
 僕の左手の答えて曰く、
『なんで起こしてくれなかった』
『努力はしたよ。5回怒鳴っても起きなかったのは誰かな』
『少なくとも僕じゃない』
『時間の連続性は否定されるもんな。過去の君は君じゃない。すると、君を起こせなかった俺も俺じゃないわけだ。俺に責任はないね』

ザナリスの昏き竜姫 1-2

 あの娘がここを訪れたのも、そんなある日のことだった。代わり映えしない退屈な朝。後の騒動の予感など一切感じさせない普段通りの起床ベルに、僕は叩き起こされたのだ――

  *

 詳しくは思い出せないが何か妙に不安な夢から覚めて、僕は漠然とした不快にしばらく眉をひそめていた。見慣れた〈個室(セル)〉の天井は“岩ならぬ岩”のグレーに覆われ、重苦しく僕の頭上を塞いでいる。冷気にすら似た異様な静けさが、鼓膜の内側に染み入ってくるかのようで――
 静けさ?
 僕は悲鳴を上げて跳ね起きた。さっき聞こえたのはベル。〈学園(ハチノス)〉全体に響くよう細工された起床ベルだ。〈生徒(セルウス)〉の大半はこれを合図に目を覚ます。が、僕の場合はそうは行かない。第三ハチノス全512室、僕の居室は最上層のそのまた最果てだ。教室までの所要時間は、他の生徒に比べて優に半時間は上回る。
 身だしなみもほどほどに(ほどほどとはいえ髪をとかす程度はやっておいたのは、見栄が半分、委員長(ダンクレア)の服装検査を恐れたのが半分)、僕はカバンを引っ掴んで〈個室(セル)〉を飛び出した。廊下を駆け抜け階段飛び降りアクビしていた猫を踏んづけかけて、つんのめるもなんとか耐える。けたたましい抗議の声を上げた猫に、
「ごめんねっ!」
 と手早く謝罪を済ませ、長い長い空中通路に飛び込んだ。
 空中通路は、恐るべき高さまで積み上げられた白骨の壁――我ながらハチノスにぴったりな形容だ――の天辺から、遥か下方の教室棟まで、緩やかな螺旋を描きつつ下っている。そこから眺める景色が僕は好きだ。スタルカスなどは怯えて目を向けようともしないのだけど。
 なぜならば、ここからは壁の外の〈砂漠(ウェイスト)〉が見えてしまうから。
 4つあるハチノスの周囲は、堅牢な城壁で囲まれている。その向こう側の荒野を眺めることができるのは、最上層住まいの特権だ。といってもちろん、見ていて気持ちの良い景色ではない。果てしなく続く赤土の平野。そこには僅かな凹凸が刻まれているばかりで、草木もなければ生き物の姿もない。非現実的に青一色の空の下、流血にすら似た砂礫がじっとわだかまっているだけだ。
 だが僕には、その光景が何故か心躍らせるもののように思える。少しはましじゃあないか? 整ってはいるし、美しくすらあるけれど、ただ灰と白ばかりのハチノスよりも。目の覚めるような色に満ちた外の世界のほうが。たとえそれが、血赤色であるにせよ。
 そんなことを考えながら見とれているうちに、僕はやらかしてしまった。
 何を? もちろん、遅刻に決まっているじゃないか。

ザナリスの昏き竜姫 1-1

1 檻(ハチノス)


 ついに盗んで来てしまった。あの娘を救い出すためのカギ。
 僕は最前からベッドの脇にひざまずき、身をくの字に折って震えている。今になって猛烈な怯えとためらいが大量の脂汗もろとも襲ってきた。だが、もう遅い。僕はやった。やってしまった。後悔は先に立たず――ならば、後悔が身体を凍りつかせてしまうより早く、やるべきことをやりきればいい。
 他の〈個室(セル)〉の連中に見られなかっただろうか? おそらく大丈夫だ。第三〈楽園(ハチノス)〉はとうに寝静まり、お隣さん(ジョニー)も、斜向かい(スタルカス)も、勤勉の権化たる委員長様(ダンクレア)でさえ、今は深い夢の中にいるはずだ。
 目覚めているのはこの僕だけ。
 ツカサ・7783だけなんだ。
「やらなきゃ」
 聞く者もいないのに、わざと口に出した。一度口にしてしまえば、心と身体が言葉に引っ張られることを知っていたからだ。できることならこのまま眠りについて、なんの代わり映えもしないいつもどおりの朝(あした)を迎えたい――そんな考えになびきかけていることに気づいたからだ。
「やるんだ。
 あの娘を、ジェットを、僕が救うんだ!」

  *

 いきなりで申し訳ない。少し説明が必要だろうね。伝えられる情報は伝えておこう。
 といっても、この〈楽園(ハチノス)〉について僕から言えることは思いのほか少ない。なぜならば、僕は生まれてこのかた故郷を出たことがないから。灯台もと暗し、ではないけれど、ある場所の特質は、そこの住人には案外分からなかったりするものらしい。よその土地を見てみなければ、何が普通で何が特別なのかも分からないからね。去年、ちょっとした用事で第四〈楽園(ハチノス)〉を訪れたときは、第三とのルールの違いに驚いたものだ。
 対比させて説明しようにも、外の〈砂漠(ウェイスト)〉のことは、残念ながらほとんど何も知らない。もちろん教科書の記述は暗記してる。三期連続で期末試験にでたから、さすがにね。曰く、そこはあらゆる悪徳と荒廃に覆われた呪いの地である。邪悪な妖魔と醜怪な汚泥を除けば、そこに根付くものはなし。千の千倍を千倍したより遠くまで、草木ひとつ生えぬ不毛の砂漠が広がっているのだ、と。
 なんで一口に十億って言わないんですか? あと単位はパーリエ? パルナ? うっかり先生にそんな質問をしてしまって、半月の特別教室行きになったのは、16年の人生でも最悪の思い出だ。
 ともあれ僕たちは――と言うのはつまり、少なくとも1700人余りの〈生徒(セルウス)〉たちは、そんな風にして毎日毎日、教えられることを覚え、覚えては忘れ、忘れては罰されて、最悪とは言えぬまでも好ましくはない日常を、最良とは言えぬまでも耐えられなくはない方法で、それなりに凌いできたのだった。

“犬は涙を流さない”2

 ヴィッシュの心地よい目覚めは、予想だにしない闖入者によって知っちゃかめっちゃかに掻き乱された。彼は朝餉の仕度も忘れ、居間の椅子に沈み込み、目の前に鎮座した橙色の生き物をただただ見つめた。開いた口が塞がらない。緋女、この同居人の奇抜な振る舞いは今に始まったことではないが、今度ばかりは何が何やら理解もできない。
「あー……えっとな」
 ヴィッシュは沈痛な面持ちで眉間をもみ、やっとのことで問を発した。向かいに座った緋女と、その膝の上の竜のヒナが、ぴたり息を合わせて首を傾げる。
「悪い、もう一回」
「いいよ。だからァ」
 緋女はピンと指を一本立てて、ついでにヒナも首を立て、
「夜」
「おう」
「これ」
「ああ」
「びゅーん」
「ムゥ」
「困る」
「だな」
「です」
「うん……」
「おまえら語彙力どこいった。」
 奥の階段を降りてきたカジュが、やる気のないイシガメのような顔をして口を挟んだ。対する緋女の答えはもちろん、
「ごいりょくって何?」
「あっ……。なんかゴメン。」
「それで、何か分かったか?」
 ヴィッシュに問われ、カジュは手にした分厚い本の、とある1ページを広げて見せた。ヴィッシュと緋女はまじまじ覗き込む。ヒナは負けじと二人の間に首をねじ込み一緒になってページを睨む。そこに描かれているのは詳細な竜の解剖図だ。
「五本の爪は古代竜に特有。肋骨の数からしてノマード科、俗に言う飛竜族だね。この辺りには棲んでないはずだけど。」
「ヒナが一匹でこんなとこまで飛んでこれたわけはない。親が一緒だったのか。それにしてもこんなテリトリー外まで迷い出てくるとはただ事じゃない。考えられるのは……」

“犬は涙を流さない”1

"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A09"Hime:
The Tearless Dog"/The Sword of Wish


 雲海は月光のもとに浮き上がり、その悠然と波打つさまは上等の天鵞絨を思わせる。黒黒と空一面に横たわる天幕、雄大なること言語に絶す。その中にあっては飛竜の巨躯さえ卑小に過ぎる。
 地上においては並び立つものとてないであろう巨竜が、ひどく動揺した様子で雲の上を飛んでいた。落ち着きなく辺りに目を配りながら、焦りを感じさせる素早さで、一直線に飛び去ろうとしている。まるで何か良からぬもの襲来に怯えているかのよう。
 そして胸の下では、何か小さく儚いものを、両手で大切に包み守って――
 と。
 不意に雲を突き破り、敵が下から飛び出した。
 鳥――いや、魚。飛行魚の一種に違いない。武装した人間どもの跨がる飛行魚が、ひとつ、ふたつ、いや数え切れぬほど姿を表し、竜の周りに殺到した。竜は喚いた。爆炎を吐き出し応戦した。だが如何せん敵の数が多すぎる。ひとつふたつ撃ち落としたとて何になろう。
 ぴたり追いすがる人間どもが、次から次へと《火の矢》を浴びせる。鱗が砕けた。肉が焼かれた。抉られた。翼は襤褸同然に引き裂かれ、竜は哀れを誘う悲鳴をあげた。と同時に緩めてしまった――宝物を抱きしめていたはずの掌を。
 焦りが悪寒となって竜を貫いたに相違ない。だが一足遅かった。零れ落ちた宝物は、為すすべもなく雲に飲まれた。竜が鳴く。弾かれたように飛行魚どもが転進する。雲海の中に飛び込んで、落ちた宝を掴まんとするが、分厚い漆黒の雲の中、それも月明かりさえ乏しい夜半のこと。誰一人として探り当てることは叶わなんだのである。

 宝は、大地に引き寄せられるまま、夜空を矢のように落下した。
 雲の下には街があった。夜半を過ぎて未だ眠らぬ、不夜城そのものの大都市。
 その片隅では見事な赤毛の犬が一匹、夜の散歩に興じていたが――胸騒ぎを覚えて見上げ見た空に、小さな、点の如きものを認め、すぐさま風よりも速く駆け出した。何故? 知らぬ。理由など要らぬ、その犬には。何かが――誰かが遥か高空から落ちてきて、今にも墜死しようとしている。それ以上、どんな理屈が必要であろう。
 小道駆け抜け、広場横切り、水路を3つ飛び越えて、緋女は人間に変化した。左右の壁を蹴って跳躍、軽々と屋根の上まで飛び上がり、キッと夜空を仰ぎ見る。
 見えた!
 と思うが早いか緋女は走った。屋根の端まで目一杯に助走をつけて、翼あるものの如く宙を舞い、落ちてきたものを胸の中に抱き留める。
 そしてそのままもろともに、背の低い植え込みの中に落着した。
「痛え」
 ややあって、緋女はぶつぶつ文句を垂れながら植え込みを這い出した。痛い。特にお尻が痛い。いちおう木々の柔らかそうなところを狙って飛び込みはしたものの、小枝で尻を引っ掻くのは避けられなかった。なんでこんな痛い目を見てまで正体不明の落下物なぞを受け止めてしまったのか、今になって自分の考え無しが恨まれた。が、ま、体が動いてしまったものは仕方ない。
 胸の中で、その落下物がもぞりと動いた。柔らかな橙色の塊を目の前にぶら下げ、まじまじと観察する。長い首。鞠のような体。短い手足に、そして、申し訳程度にちょんと添えられた一対の翼。
 緋女がぽかんと見ていると、その橙の生き物が、ゆっくりと瞼を開いた。長い首を巡らし、緋女の姿を認めると、ぴ、と図々しくも落ち着いた声で一声鳴く。
 緋女は、眉と口元をいっしょくたに歪めた。
「なんだテメーは?」
 などと問うまでもあるまい。
 竜のヒナ。それ以外の、何者でもなかった。



勇者の後始末人
第9話“犬は涙を流さない”