資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

ザナリスの昏き竜姫 改 1-2

 一時、ページを繰る手を止めて、彼は窓の光景に見入った。美しい、と思うことさえ忘れていた。日中には白亜の煌めきを見せた尖塔たちが、赤銅色の空に溶け込んでいく。その背後には忌々しくも壮大な高壁。そしてさらに向こう側、何処までも果てしなく広がる大地――その鮮やかに浮かび上がる赤土の地平は、まるで一面に流された血潮のよう。
 〈外(ウェイスト)〉。学園都市(ハチノス)では、ただそう呼んでいる。
 教科書に曰く、そこはあらゆる悪徳と荒廃に覆われた呪いの地である。邪悪な妖魔と醜怪な汚泥を除けば一つとして根付くものはなし。千の千倍を千倍したより遠くまで、草木ひとつ生えぬ不毛の砂漠が広がっているのだ、と。
 そうかもしれない。確かにここから見えるのは、生物の活動を拒む荒野ばかりだ。
 だが――いささか頭がおかしいのだろうか?――レンには〈外〉が、やけに美しく見えるのだ。
 計算によると、塔から見える地平線までは僅か20パルナの距離しかない。その先はどうなっているのだろう? 教科書通り、不毛の地がどこまでもどこまでも続いているのだろうか。あるいはどこかに生物がいて……ことによると、この学園都市(ハチノス)のような街が他にもあるのではないだろうか?
 レンはひとり、静かに微笑んだ。思い出し笑いだ。今日、この特別教室に送られたのは、まさにそうした〈外〉についての独自見解を、うっかり教師の前で喋ってしまったかからなのだ。
 そんな誤った考えに囚われるなど、と教師は言った。
 ――確かめたことなどないくせに。
 心底の軽蔑を込めてレンが鼻を鳴らした――その時だった。
 おかしなものが見えた。
 初めは目の前を虫でも飛んでいるのかと思った。が、虫にしては一点に留まりすぎる。よくよく目を凝らしてみれば、その点は目の前ではなく、遥か遠く――三本牙の塔の間に浮かんでいた。思わず大切な本さえ取り落とし、レンは窓にへばり付いた。綱。そう、綱のようなものが塔の間に渡され、それにぶら下がって、誰かが空中を移動している。
 レンが口あんぐりと開いて見守っていると、その人物は驚くべき素早さで綱を渡りきり、三本牙の三本目へと辿り着いた。バルコニーに立ち、何かの道具をこちらへ向ける。
 細い風切り音が聞こえたかと思うと、何かがレンのそばの壁に突き立っていた。見ればそれは一本の矢。矢の後ろには細い綱が繋がれている。
「あ!」
 レンは思わず声を上げた。先程の人物が構えていたのは、弩か何かに違いない。それで綱を他の塔へ渡して……
 ということは、奴はこちらへ来る。
 一体何者だろう? なぜこんな危険な真似を? 得体の知れない闖入者に備え、レンは武器を探そうとして、果たせず、結局インクペンシルと本一冊を手に取った。投げつければ、少しは怯んでくれるかもしれない。いや、望み薄であろうか。
 身構えるレンの前に、綱渡りの男が姿を表した。
 よ、と小気味よい掛け声とともに、窓から中へ踊り込んでくる。見れば随分小柄な男だ。というより若い。歳はおそらく12、3。まだ少年と言ってよかろう。少年はレンに気づくと、感情のままに顔をしかめた。
「えー。なんだお前」
 その無遠慮な言い草を聞いて、レンに怒りが湧いてきた。おかげで怯えは嘘のように消え失せた。ずいと前に踏み出しさえして、レンはあらん限りの声を振り絞った。
「お前こそなんだ!」
「泥棒さ」
 レンは言葉を失った。
 泥棒。他人のものを盗み、それを生業とする人々、らしい。歯に物の挟まったような言い方しかできないのは、本の記述でしか知らないからだ。泥棒なんてものは学園都市(ハチノス)にはいない。そのような悪徳は遠い昔、狂気の帝国時代に放逐され、今では〈外〉にしか存在しないはずだ。
「まさか……君は、〈外〉……から?」
「興味津々らしいね」
 嫌らしい笑みを浮かべて、少年が手近な椅子にどっかりと胡座をかいた。
「いかにも、俺は〈外〉の人間。
 俺たち、いい取引ができるんじゃないかと思うんだけど」