資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

ザナリスの昏き竜姫 改 1-1

1 外(ウェイスト)からの少年


 ――ついに盗んで来てしまった。あの娘を救い出すためのカギ。
 レイは最前からベッドの脇にひざまずき、身をくの字に折って震えている。今になって猛烈な怯えとためらいが大量の脂汗もろとも襲ってきた。だが、もう遅い。彼はやった。やってしまった。後悔は先に立たず――ならば、後悔が身体を凍りつかせるより早く、やるべきことをやりきればいい。
 他の個室(セル)の連中に見られなかっただろうか? おそらく大丈夫だ。厳格な規則に縛られた学園(ハチノス)のこと、ひとたび消灯時刻を過ぎてしまえば、街全体が動力を落とした魔導機械さながらに寝静まる。お隣さん(ジョニー)も、斜向かい(スタルカス)も、勤勉の権化たる委員長様(ダンクレア)でさえ、今は深い夢の中にいるはずだ。
 目覚めているのはただ一人。
 レン・7783をおいて他にない。
「大丈夫、僕はやれる……
 僕はやれる、僕はやれる、僕はやれるっ……」
 他に聞く者とてないというのに、レンは何度も繰り返し、同じ言葉を口に出した。知っていたからだ。口にしてしまえば、心と身体は言葉に引っ張られることを。そしてまた、気付いてもいたからだ。できることならこのまま眠りについて、なんの代わり映えもしないいつもどおりの朝(あした)を迎えたい――そんな考えに自分がなびきかけていることに。
「やらなきゃ」
 小さく、しかし吠えるように力強く、彼は一声呟いた。立ち上がったその姿に、運動不足気味の貧弱な学徒の面影はない。真っ直ぐに伸びた四肢と背筋は、さながら研ぎ澄まされた白銀の剣。
「やるんだ。
 あの娘は。ジェットは。僕が救うんだ!」

  *

 ことの始まりは、数日前に遡る。
 その日。高壁の向こうから黄ばんだ太陽が射し込み、立ち並ぶ六角形の塔どもにその光輪が掛かる頃、レンは特別教室に叩き込まれた。第42教室棟の最上層にあるあの部屋だ。
 レンは、ここに来るのが嫌いではなかった。
 本来名誉の聖域であったはずの特別教室が、事実上の懲罰房に成り下がったのは、一体いつのことなのだろう。学園都市の大いなる校則に違反したもの、あるいは教師に反抗したものは、委員長の責任において種々のペナルティを課せられる。中でも最大級に重いのが、特別教室での特別補習だ。たいていは恐ろしく困難な課題が出され、それが終わるまでは食事さえ与えられず、ひたすら勉強に打ち込むことを強制される。短い者で2、3日。長い者は――永遠に。
 特別教室から戻った生徒の多くは、深く深く「反省」をして、二度と再び特別教室行きにならぬよう心掛けるようになる。校則を守りさえすれば、少々の不自由に耐えさえすれば、それで最悪の自体は避けられるのだ。安い買い物と言えた。普通なら。
 だが、ここには充実した書架(ライブラリ)がある。紙やインクペンシルの用意もたっぷり。そして何より、小うるさいクラスメイトや教師や委員長はここには居ない。学園都市の喧騒は遥か下。誰にも邪魔されず好きなだけ読書ができる。勉強できる。こんな空間が他にあろうか。
 無論、少しばかり腹は減るが――それこそ安いものである。少なくとも、レンにとっては。
 そんなわけで、レンは度々ここを訪れた。不安げにふらつく高速エレベータにも驚かない。牢番、もとい管理担当教師のほうでも、もはや部屋の使用規則を説明さえしない。
 ここに監禁されたのが午前のこと。前回目をつけていた稀覯本を読み耽り、気づいた時には、西の“三本牙”――レンがつけた名である。一際高い尖塔が、三本寄り添うようにならんでいる――の隙間に、夕陽が沈み始めていた。