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資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

刃の緋女 6

 夜は更け、細い月が中天にかかる。それでもまだ後始末人ヴィッシュの動きは止まらなかった。教区の端から端まで、あらゆるところを虱潰しに調べるつもりかもしれない――あまりにも闇雲な動きに、尾行者はそう推測したのだった。
 その男は、獲物の後を付かず離れずぴたりと追い続けた。ヴィッシュがさやめく水路の橋を越え、歓楽街の卑猥な赤い灯火を過ぎ、ついに月明かりさえ届かぬ倉庫街に足を踏み入れた頃、尾行者は他の仲間たちと合流した。音もなく、ただ頷きだけを交わして。
 尾行者たちの数は今や3人――いや、もはや尾行者ではない。襲撃者。彼らの狙いは、獲物の命だ。
 少しずつ、襲撃者たちは獲物へ距離を詰めていく……
 と。
 前方で、ヴィッシュは突如立ち止まり、次の瞬間には脱兎の如く駆け出した。
 ――気づかれていた!?
 慌てて後を追う。だが路地に打ち捨てられた木箱や樽、ゴミの類が彼らの追跡を困難にしていた。まずい、と三人は焦りを顔に浮かべる。ヴィッシュはとうに尾行に気付いていて、この場所まで彼らを誘導したのだ。ごみごみとした、狭苦しい、逃げ隠れするにはもってこいの倉庫街へ。
 獲物の姿が四つ角の左に消える。襲撃者たちは全力で走り、後を追って角を曲がった。と思ったその時、前から2番目を走っていた男が悲痛な悲鳴を上げて転ぶ。3番目の者はそれを避けきれず蹴っつまづいて顎から地面に飛び込んだ。最初の者が何事かと振り返ったその時、容赦ない白銀の閃きが彼の腿をひと撫でした。
 ヴィッシュが振るった剣は、その切っ先でものの見事に腿の筋肉を引き裂いた。苦悶の声に、夥しい血の滴りが混ざる。襲撃者たちは剣を抜き、なんとか体勢を立て直したが、その時にはもうヴィッシュは2歩引いたところで油断なく身構えていた。
 何が起きたのか? 襲撃者たちには分からなかっただろう。
 なんのことはない、ヴィッシュは角を曲がってすぐのところで、木箱の影にしゃがみ込んでいたのである。この暗闇、雑然とした路地、さらには逃げられてしまうという焦りが相互に作用し、襲撃者たちをしてヴィッシュの姿を見逃さしめた。ヴィッシュはただ、2人目の追手が通過するタイミングを見計らって剣をそっと突き出すだけでよかった。あとは勝手に敵が刃を蹴飛ばし、自分の足を切り裂いてくれる。
 襲撃者たちは数秒、ヴィッシュと睨み合ったが――不利を悟ったか、踵を返して逃げ出した。その姿は速やかに暗闇へ溶けていく。と、その後を追うようにして、ヴィッシュの背後から現れる影があった。
 ヨブである。
 ヨブは目配せのみで合図すると、襲撃者どもを追跡して、夜の中へ消えた。先程酒場で頼んだのは、このことだったのだ。
 刃先の血を拭い取り、剣を鞘に納めて、ヴィッシュは緊張を溜息とともに吐き出した。これでまずは一段落。うまくいけば敵の居所が解る、はずだ。

 そもそもヴィッシュは、緋女が襲われた原因は自分にあるのではないかと推測していた。
 手際の良さから見て、相手が計画的に緋女を狙ったことは明らか。動機が怨恨にあるとすれば、ヴィッシュやカジュも同じように恨まれていておかしくない。彼女たちがこの街に来てから、3人はほとんど行動を共にしていたのだ。
 とすると、緋女に呪いをかけたのは、緋女本人を害する狙い――のみならず、ヴィッシュから女たちを引き離す策でもあったのではないか?
 緋女は強い。カジュもだ。この二人を相手に正面切って戦うなら、百人規模の軍勢でも不足だ。ヴィッシュに復讐したくとも、そばにはほとんど常時緋女かカジュがいる。だが継続的に緋女を苦しめる呪いをかければ、少なくとも彼女は無力化できるし、おそらく術士のカジュは緋女につきっきりになる。最も弱いヴィッシュが単独で動くはめになる、というわけだ。
 この推測が正しければ、敵はヴィッシュを狙って動き出すはず。それを想定して神経を尖らせていたら、案の定、尾行者が現れた。襲いやすい時と場所に誘導してやれば、向こうから仕掛けてくるだろう。
 あとは、なんとかなりそうなら返り討ちに。無理なら逃走。いずれにせよ最終的に敵は拠点へ戻ることになるだろうから、ヨブに逆尾行してもらえばいい。
 合流場所に決めておいたコバヤシの家――彼の本業は酒屋だ――に向かうと、もう夜半近い時刻だというのにコバヤシは灯りを残して待ってくれていた。店の中では数名の後始末人仲間たちが寛いでいる。彼らと挨拶を交わし、コバヤシの方の調査結果を一通り聞き終えたころ、ヨブがひょいと顔を覗かせた。
「兄ィ! 戻りましたよう」
「ヨブさん。どうでした?」
「奴らァ、同盟通りのセコイヤ商会に逃げ込みましたよ」
 ヴィッシュは首を傾げた。セコイヤ商会、知らぬ名だ。後ろでコバヤシがぽんと手を打つ。
「なるほど! セコイヤ」
「誰だ?」
「ボダクルの下で支配人をしていた男ですよ」
 それでヴィッシュにも合点がいった。ボダクルの名には聞き覚えがある。緋女やカジュと初めて出会った事件で3人が片付けた商人だ。魔獣や魔族の違法取引に手を染めていたが、それをヴィッシュたちが暴き、摘発させてしまった。そのためにボダクル商会は解散の憂き目を見た。復讐の動機としては充分だ。
「地図だ」
 ヴィッシュの声に応えて、後始末人のひとりが市内全図を持ってきてくれた。机に広げ、全員で覗き込む。
 コバヤシには、要塞通り近辺の食料品を扱う店を巡り、大量の食糧を買いに来た客がいないかと調べてもらっていた。少なくとも10名の術士が寝ずの儀式を行うなら、交代や護衛要員も含めて相当な人数が一か所に固まっていることになる。当然、それらを養う食糧も並大抵の量ではなくなるはず、と推測したのだ。
 思った通り、大嵐通りに百食分以上もの食べ物を買い込んだ客がいたらしい。大嵐通りの周辺で、セコイヤ商会が所有する、数十人が滞在できるほどの施設。となると――
「ここだ」
 ヴィッシュの指が、地図の一点を指す。
 大運河25番倉庫。敵は、ここにいる。