資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

刃の緋女 1〜4 修正版

"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A09"Hime; the Edged"/The Sword of Wish


 緋女の激怒は面に出ない、むしろ潮の引くように静まるのだ――ということを、ヴィッシュはその時初めて知った。
 彼女の顔に貼り付く、仮面のごとく無機質な表情。それはどこか、獲物を前にした狩人にも似ている。
「……一緒に行くって言ったじゃん」
 冷たく研ぎ澄まされた抜き身の刃を思わせる、低く落ち着いた声色だった。日頃の騒がしさが嘘のよう。その静けさがかえってヴィッシュの不安を掻き立てる。彼は思わず目を逸らした。手元の細工仕事に取り掛かるふりをして。
 思えば、いさかいの原因は実につまらないことであった。事の起こりは3日ほど前。仕事中の雑談で、たまたまツェーニクの“音楽会”の話になった。港湾区の空き倉庫を借りて週に一度開かれているパーティ。そこには若い音楽家やダンサー、詩人、あるいはただのお祭り好きが寄り集まり、呑んで歌って踊り狂って、夜が明けるまで好き勝手に騒ぎ遊ぶのだ。
 緋女は大いに興味を示し、連れて行けとねだった。ヴィッシュとしても悪い気はせず、なら一緒に行こう、と約束した日がまさしく今夜。
 だが折悪しく、明日の朝から後始末人協会の急な会合が、それも遠く離れた西教区で行われることになったのだった。しかもヴィッシュ君是非参加せよと名指しされては、いつものようにすっぽかすわけにもいかない。となれば、今日の昼過ぎから泊まりがけで行かねば間に合わない。
「仕方ないだろ、仕事なんだから」
 後ろめたさを誤魔化すようにそう言うと、緋女の間髪入れぬ答えがあった。
「あっそ。いつまでも仕事大好きなヴィッシュでいてね」
「なんだその言い方!」
 しまった、と思った時には遅かった。既に声を荒げてしまっていた。後悔はすれど、吐いた唾は飲み込めない――いや、飲み込めないこともないのかもしれないが、それよりも、口惜しさのほうが勝っていた。
 無論、悪いのはヴィッシュだ。なにしろ緋女との約束の方が先なのだ。それに、名指しで呼びつけるくせに直前まで連絡しない協会の態度も気に食わない。以前のヴィッシュなら、会合など知ったことか、と一蹴していたに違いない。
 それでも足を運ぶ気になったのは、緋女たちとチームを組んだからこそだ。自分一人なら好きなだけ“まつろわぬもの”をやっていればよいが、仲間のできた今はそうもいかない。面倒でも協会員との繋がりを密にして、緋女たちに割のいい仕事を回してやりたい。
 そんな気持ちが、かえって彼を頑なにさせている。その矛盾を半ば自覚しながら己の感情を御しきれずにいる。一口に言えば、苛立っていたのである。
「音楽会は来週でもいいだろ」
「もういいし。あたし行かない」
「お前……!」
「お散歩行ってきまーす」
「……勝手にしろっ」
 ふらりと出ていく緋女の背を見送りもせず、ヴィッシュは不機嫌にそっぽを向いた。
 その一部始終をじっと見つめる目がふたつ。奥の階段に腰掛け、頬杖つきつき溜息を吐くのは、言うまでもなくカジュである。
「あーあ。コドモだね。」
「どっちが?」
「分かってるくせに。」
 カジュはひょいと肩をすくめ、
「夕べ緋女ちゃん、うっきうきで寝られなかったみたいよ。と、老婆心ながら付け加えておきます。」
 ヴィッシュは完全に沈黙した。

 感情は炎の如きもの。燃え盛っているのは明らかでも、その実体は常に揺らいでひとつの姿に留まらない。掴みどころなどあるはずもなく、それでいて、手を突っ込めば肌を確実に焼き焦がすのだ。
 とりわけ緋女にとって、この炎は手に余る代物だった。彼女は言葉がよく分からない。いまひとつ信頼が置けないと感じている。いかに言葉を練ろうとも、胸中の全てを言い表すことなど到底できない――少なくとも彼女の乏しい言語能力では。世の賢者たちは、また違った見解を述べるのかもしれないが。
 よって彼女にできたのは、憤りを胸の内に封じ込めたまま、第2ベンズバレンの小径をうろつくことだけだった。特に目的はない。ただ歩きたかっただけだ。体を動かしているうちに、こうした怒りの正体について、ふと理解できることもある。たとえできなくとも、時さえ経てば感情の火勢も弱まり、やがては消し炭の中の微かな赤熱の如くなって、拾い上げることも忘れ去ることも不可能でなくなるだろう。
 そんな風に心と身体を強張らせていたからだろうか。自分を取り囲む悪意の気配に気付くのが、一瞬遅れた。緋女ともあろうものが。
 緋女は我に返り、辺りをさりげなく見回した。ここは要塞通りの裏小路。左右は背の高い建物が城壁さながらに建ち並び、ゆったりと弧を描く石畳の路に、いくらかの通行人が流れている。怪しい者の姿はない。が、緋女の鋭敏な嗅覚が、建物の裏や曲がり角の向こう、屋根の上などに散在する体臭を確かに嗅ぎ取っていた。
 緊張の匂い。恐怖の匂い。それらを上から塗り潰す、力強い憎悪の匂いだ。
 通行人が通り過ぎ、巻き添えの心配がなくなるのを待ってから、緋女は足を止めた。刀の柄にそっと手を掛け、左右に首を巡らせながら呼び掛ける。
「出て来いよ。相手になるぜ」
 憎悪の中に戸惑いの匂いが湧き立つのが感ぜられた――と、ひとりが前方に躍り出たのを皮切りに、横から、後ろから、あるいは上から、十人あまりの男たちが姿を現した。
 今度は緋女が戸惑う番だった。この男たち、明らかな敵意の気配を滲ませながら、それでいて、身には寸鉄ひとつ帯びていない。術士か? それにしても、杖無しではたかが知れている。しかも緋女に襲い掛かるでもなく、ただ辺りを取り囲んで、突っ立っているだけなのだ。
 一体誰なのか。何のつもりなのか。先手を取って斬ってしまうのも躊躇われる。
 そしてその躊躇いこそが、緋女の敗因となったのである。
「《簡単な呪殺》」
 一瞬、のことだった。男たちが声を揃えて呪文を投げかけるや、緋女の身体を取り囲むようにおぼろげな光が生まれ、すぐさま消えた。何をされた? と思った時には、もう男たちは踵を返し、逃げ始めていた。
「待てコラァ!」
 追いかけて捕らえようと、一歩を踏み出した、その時だった。激痛が骨髄から溢れ出し、そのあまりの凄まじさに、流石の緋女さえ悲鳴を上げて倒れ伏す。無論すぐに立ち上がろうとはした。が、今や痛みは全身に広がり、指一本を動かすだけで、身体を真っ二つに引き裂かれそうになる。
「なんだっ……テメ……何したァ!」
 蛞蝓のように這う事しか出来ぬ緋女。周囲の住人や通行人が騒ぎを聞きつけ、躊躇いがちに集まってくる。その人影の向こうで術士の背中はみるみる遠ざかる。そして最後に立ち止まり、怯えた目でこちらを一瞥だけすると――雑踏の中に消えた。



勇者の後始末人
第9話“刃の緋女”



「治せないわけあるか、お前カジュだろっ!」
 ヴィッシュは少女に詰め寄り、その小さな肩を力任せに掴みさえした。カジュには目を逸らすことしかできなかったというのに。
 緋女は、たまたま居合わせた知人のはからいによって自宅へ担ぎ込まれた。ヴィッシュの目にしたものは、身を丸め、顔を歪めて、絶え間なく走る激痛に苦悶の声を零し続ける緋女。一体誰にやられた? 何故緋女ほどの女が? 百万もの疑問が脳の中に渦を巻いたが、答えを求める時間はなかった。すぐさま寝床に横たえ、ありとあらゆる手を打ったが、どれひとつとして効果を挙げることはなかった。とっておきの薬も、呼びつけた名医も、類稀な術士たるカジュ・ジブリールでさえもだ。
 カジュは緋女の枕元に座り込み、医者や秘薬が成果の得られぬ仕事に従事する中、一心不乱に水晶玉をいじっていた。そして他のあらゆる試みが失敗に終わった後、僅かに目を細め、一言呟いたのだ。治すのは無理だね。と。
「落ち着きなよ、ヴィッシュくん。」
「これが落ち着いていられるかっ!
 ……一体何が起きたんだ」
「即効性の非定常術式付与。」
 トン、と、カジュは水晶玉を小突いた。磨かれた局面の内側には、多彩な光の紋様が無数に重なり合って浮かんでいる。文字のようでもあり絵図のようでもあるそれらが何を意味するのか、無知なヴィッシュには到底読み取れなかったが。
「緋女ちゃんの本質、魂の表面に魔術式が焼き付けられてる。それが体内に重度の炎症を引き起こしてるんだ。
 ひらたく言えば……呪い、みたいなものだね。」
「お前の力でも解けないのか?」
「理論上は不可能じゃないけどね……。
 おまんじゅうに砂をまぶすのは簡単だけど、それを一粒一粒取り除くのは超大変、ってとこかな。物理的に時間が足りないよ。」
「なら緋女はどうなる?」
 沈黙。
 あらゆる好ましいものを押し潰さんとする、重苦しい静寂。ヴィッシュは奥歯を噛み締めた。拳の中で爪が肌に食い込んだ。目はどこか床の一点にじっと落とされ、微かな震えの兆候が腹の奥から湧き上がりつつあった。思考は巡る。どうする? どうすればいい? 普段なら策のひとつやふたつ浮かばぬ彼ではないはずだ。なのに混乱と不安がその全てを食い荒らしてしまった。
 不意にヴィッシュは頬に温もりを感じた。息を飲んだ。病床の緋女自身が、腕を伸ばし、ヴィッシュを撫でていたのだった。額の脂汗とうらはらの、驚くほど安らかな笑顔で。緋女はヴィッシュの髪を指でくしけずり、彼の頭を胸元に抱き寄せた。
「ばーか。なにテンパってんだよ」
「緋女……」
「こんなのぜんぜん余裕だし」
 彼女の表情は、その言葉通りに見えた。確かに多少弱弱しくはある。僅かな動揺も見て取れる。だが、その声は、その顔は、驚くほどに普段通りの緋女だったのだ。そんなはずがない。苦しくないはずが。平静を装う彼女の姿が、かえって地獄の責め苦を物語っているように思われた。緋女は痛みを堪えている。気丈にも耐えている。理由は明白。
 ヴィッシュの不安を取り除くためだ。
 と、苦痛が限界を超えたのか、緋女の口から呻きが漏れた。カジュが枕元のほうから緋女を覗き込み、数回目を瞬かせる。
「やばいな……。緋女ちゃん、一回眠らせるね。」
「うん……任す」
「最初グエッてなるけど抵抗しないで。すぐ痛み消えるから。」
 相棒が唱える救いの呪文を聞きながら、緋女はヴィッシュの額を指で突いた。脂汗に塗れたまま、最後にもう一度、小憎たらしい笑みを浮かべて見せ、
「おい。音楽会、来週、絶対、な……」
「《深い眠り》。」
 ついに彼女の手から、力が失われた。
 ヴィッシュは、自分の頬から緋女の手を引き離し、毛布の下に収めてやった。その目は暗く、影の中に閉ざされ、感情らしきものは何一つ読み取れない。ゆっくりと大きく息を吸い、細く長く吐き出して、ヴィッシュは誰にも聞こえぬ声で囁く。
「そういやケンカしてたっけな……」
「なんか言った。」
「緋女を助ける方法は?」
 その声に、動揺の色はもはやなかった。
 カジュが頷き、見解を述べる。
「この術は厳密には呪いじゃない。本来なら数分で効果が切れるはず。誰かが儀式によって時間を延長してるんだ。」
「つまり、それを潰せばいいんだな」
「そいこと。
 これだけの規模なら、少なくとも10人以上の術士、小さくとも握り拳大以上の蛍光蛍石を使って、不眠不休の儀式が必要。その条件を一つでも崩せばすぐに解けるよ。」
「タイムリミットは?」
「緋女ちゃんの体力を考慮に入れても、マックス2日。
 ミニマムで……明日の深夜まで。」
 ヴィッシュは立ち上がった。
「お前は緋女についててくれ」
「おけ。そっちは。」
 問われて彼は、微笑んだ。
「音楽会、今度は連れてってやらなきゃな」
 その目には、黒々とした光が炎めいて揺れている。火の眼。さがなら、緋女の力と意思が乗り移り、ヴィッシュの奥で狼狽え縮こまっていたものを呼び覚ましたかのよう。彼、万策のヴィッシュは扉を叩き開け、外に踏み出すや一声吠えた。
「まあ見てろ」

 敵が緋女を狙い打ちにしたことは疑う余地もない。
 彼女の技量をあらかじめ知っていればこそ、敵は正面衝突を避け、搦手で挑んだ。呪いをかけるや迷いなく逃走する、この思い切りの良さが証拠。待ち伏せ地点も、普段の散歩ルートを調べたうえで選んだに違いない。そのうえ10名以上もの術士と、その人数が2日に渡って儀式を行える場所も必要。握り拳大以上の蛍光蛍石というのも安い物ではない。
 これは綿密に計画された襲撃だ。相手はそれなりの規模を持つ組織とみていいだろう。組織だった動きは、どこかに必ず痕跡を残す。それを辿って儀式の場所を突き止めることはできる――はずだ。
 ヴィッシュは要塞通りにやってきた。緋女が呪いをかけられた場所だ。その時の状況を知る者たちに根掘り葉掘り聞きまわり、さらには襲撃者が潜んでいたと思しきところをひとつひとつ丹念に調べていく。住人たちは概ね好意的だった(幾ばくかの銀が口利きしてくれたせいもある)が、情報は錯綜し混乱し誇張されていた。
 得られたものは少なかった――が、ゼロではない。
 裏通りの地べたに這って足跡を探しているとき、誰かが背後に駆け寄ってきた。振り返ってみれば、コバヤシが軽く息を弾ませながらこちらを見つめていた。いつもの洒落た金糸飾りの上着が、僅かに乱れている。
「ヴィッシュさん」
「悪いな、会合には行けない。後で言いに行こうと思ってたんだが」
「ご心配なく。もう欠席連絡に人を遣りましたよ」
 ようやくヴィッシュは立ち上がった。膝に付いた土を払うふりをして、コバヤシからは顔を背ける。
「あんたも行かないっていうのか?」
「行きません。人手も集めておきました。お手伝いします」
「手伝いってお前……」
「緋女さんのことは聞きました。何でも言ってください」
 毅然とした声に惹き寄せられて、とうとうヴィッシュも彼の顔を見た。今やコバヤシは普段通りの落ち着きを取り戻していたが、その微笑は、いつもと違って不快ではなかった。真意の読めないこの笑顔に、これまで幾度となく苛ついてきたはずなのに。
 ヴィッシュは膝に手をつき、深々と頭を下げた。儀礼のためではない。こうしたくてたまらない、心からそう感じたためであった。
「……すまん。恩に着る」
「あなたが恩に着てくれるなら、こんな頼もしいことはないですよ」
「おいおい。見返りに何させる気だ?」
「覚悟しといてくださいね?」
 一瞬の沈黙の後、ふたりして吹き出して、そのまま声を揃えて笑った。かつてなかったことだ、このふたりがこんな風に笑い合うのは。
 ヴィッシュは自分の笑い声に少なからぬ驚きを感じていた。コバヤシとはもう10年の付き合いになる。その間、仲が深まるようなことは一切なかった。だが凍り付いたままの関係も、分厚い氷壁の向こうでは確実に成長を続けていて――ふとした瞬間に氷が溶ければ、何か大きなものが姿を現す。そうしたものなのかもしれない。
「それじゃあ遠慮なく頼むぜ、コバヤシさんよ。俺の考えはこうだ――」
 ふたりは路上で手短に密談を済ませ、別れた。長話は必要ではない。要点さえ押さえておけば、相手は自ら適切に動いてくれる。お互いそう分かりきっているのだから。
 ヴィッシュは次なる手掛かりを求めて移動を始めた。体が軽い。百万の味方を得た気分だ。高揚している自分に気づいた途端、奇妙な事に、これまで脳のどこかで堰き止められていた策と推理が、鉄砲水のごとく溢れ出てきたのだった。