資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

刃の緋女 3

「治せないわけあるか、お前カジュだろっ!」
 ヴィッシュは少女に詰め寄り、その小さな肩を力任せに掴みさえした。カジュには目を逸らすことしかできなかったというのに。
 緋女が路上に倒れている――その知らせに、ヴィッシュはすぐさま駆けつけた。そこにいたのはまさに緋女。石畳の上に身を丸め、絶え間なく走る激痛に苦悶の呻きを零し続けていた。背負い、家に連れ帰り、寝床に横たえ、ありとあらゆる手を打ったが、どれひとつとして効果を挙げることはなかった。とっておきの薬も、呼びつけた名医も、そして類稀な術士たるカジュ・ジブリールでさえも。
「落ち着きなよ、ヴィッシュくん。」
「これが落ち着いていられるかっ!
 ……一体何が起きたんだ」
「即効性の非定常術式付与。」
 トン、と、カジュは水晶玉を小突いた。磨かれた局面の内側には、多彩な光の紋様が無数に重なり合って浮かんでいる。文字のようでもあり絵図のようでもあるそれらが何を意味するのか、無知なヴィッシュには到底読み取れなかったが。
「緋女ちゃんの本質、魂の表面に魔術式が焼き付けられてる。それが体内に重度の炎症を引き起こしてるんだ。
 ひらたく言えば……呪い、みたいなものだね。」
「お前の力で解けないのか?」
「不可能じゃないけどね……。
 おまんじゅうに砂をまぶすのは簡単だけど、それを一粒一粒取り除くのは超大変、ってとこかな。」
「なら緋女はどうなる?」
 沈黙。
 あらゆる好ましいものを押し潰さんとする、重苦しい静寂。ヴィッシュは奥歯を噛み締めた。拳の中で爪が肌に食い込んだ。目はどこか床の一点にじっと落とされ、微かな震えの兆候が腹の奥から湧き上がりつつあった。思考は巡る。どうする? どうすればいい? 普段なら良い考えのひとつやふたつ浮かんでいたはずなのに、今は、混乱と不安がその全てを食い荒らしてしまったかのようであった。
 不意に、ヴィッシュは頬に温もりを感じた。病床の緋女自身が、腕を伸ばし、ヴィッシュを撫でていたのだった。緋女はヴィッシュの髪を指でくしけずると、彼の頭を胸元に抱き寄せた。そして、面食らっている彼に、明るく笑顔を投げかけた。
「ばーか。なにテンパってんだよ」
「緋女……」
「こんなのぜんぜん余裕だし。あたしを誰だと思ってんの」
 多少、弱弱しくはある。僅かな動揺も見て取れる。だが、その声は、その顔は、驚くほどに普段通りの緋女だった。その姿が、かえって彼女を苛む地獄の責め苦を物語っているように思われた。緋女は痛みを堪えている。気丈にも平静を装っている。なぜだ? 知れたこと。
 ヴィッシュの不安を取り除くためだ。
 と、痛みが限界を超えたか、緋女が小さく苦悶の声を漏らした。カジュが枕元のほうから緋女を覗き込み、数回目を瞬かせる。
「やばいな……。緋女ちゃん、一回眠らせるね。」
「うん……任す」
「最初グエッてなるけど抵抗しないで。すぐ痛み消えるから。」
 相棒が唱える救いの呪文を聞きながら、緋女はヴィッシュの額を指で突いた。脂汗に塗れたまま、最後にもう一度、小憎たらしい笑みを浮かべて見せ、
「おい。音楽会、来週、絶対、な……」
「《深い眠り》。」
 ついに彼女の手から、力が失われた。
 ヴィッシュは、自分の頬から緋女の手を引き離し、毛布の下に収めてやった。カジュがちらりと顔色を見たが、彼の目は暗く、影の中に閉ざされ、感情らしきものは何一つ読み取れはしなかった。
「緋女を助ける方法は?」
「この術は厳密には呪いじゃない。本来なら数分で効果が切れるはず。誰かが儀式によって時間を延長してるんだ。」
「つまり、それを潰せばいいんだな」
「そいこと。
 これだけの規模なら、10人以上の術士、握り拳大以上の蛍光蛍石を使って、不眠不休の儀式が必要。その条件を一つでも崩せばすぐに解けるよ。」
「タイムリミットは?」
「緋女ちゃんの体力を考慮に入れても、マックス3日。
 ミニマムで……明日の深夜まで。」
 ヴィッシュは頷き、立ち上がった。
「お前は緋女についていてくれ」
「ヴィッシュくんは。」
 問われて彼は、微笑んだ。
「今度こそ音楽会に連れてってやらなきゃな」
 その目には、黒々とした光が炎めいて揺れている。火の眼。さがなら、緋女の力と意思が、ヴィッシュの奥で狼狽え縮こまっていたものを呼び覚ましたかのように。彼、万策のヴィッシュは扉を叩き開け、外に踏み出すや一声吠えた。
「まあ見てろ!」