資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

プリンセスには、貌が無い 2.全き白の仮面/7

 魔女の家に帰り着いた時には、もう夜半を過ぎていた。アルテマは速やかに旅支度を整えた――といって、財産は数えるほどもなかったが。魔女がくれた若かりし頃の服。これは姫の慎ましやかな乳房にぴったりと合っていた。大鬼ガリがくれた頭陀袋。外套の裏に吊るすことも出来る。そして、ミエルがくれたビスケットの包み。驚くべきことに、ここで口にした数々の美食は、みな彼の手によるものだったのだ。
 音もなく、そっと母屋の外に出て、アルテマは庭を一望した。彼女を癒やしてくれた森の異界。今は青い月光を浴びて、草木はさやさやと揺れ歌っている。凍るような静けさにも関わらず、その光景は燃え広がる炎の如く思われた。青い炎。熱もなく姫の肌を焼く、逆襲の炎。
「で、挨拶もなしに行こうってわけ?」
「わあ!?」
 突如背後で囁かれ、姫は飛び上がった。冷汗まみれで振り返れば、そこには腰の曲がった魔女インバが悪戯な笑みを浮かべている。後ろには、ひょいと気楽にしゃがんだ大鬼ガリまで。
 いや、ここで気迫負けをするわけにはいかぬ。アルテマは胸をそらし、精一杯に虚勢を張ってみせた。
「言えばお止めになったでしょう。わらわは行かねばならぬのです」
「どうして?」
「父は死の床でわらわに申しました。王亡き後、蠢き出すものがあろうと。王弟ジャコマは必ず国を乱します。乱が長引けばハンザもシュヴエーアも黙ってはおりますまい。鎮めねばなりませぬ」
 魔女は黙って聞いていた。姫は滔々と語りながら、自らの言葉を信じてはいない己に気付いていた。違う。違う。そうじゃない。
「相手は強いわ。あなたひとりでどうこうできる相手じゃない。まず負ける……殺される。分かってるの?」
「分かりませぬ」
 そうだ。
「わらわは勝つ」
 それだ。
「勝つために征く!」
 それがお前だ。
「わらわはアルテマ
 ベンズバレン第一王女、アルテマ・ク・テラス・リンゲンロート!
 そしてルナルは、我が妹じゃ!!」
 沈黙があった。
 張り詰めた緊張の末、インバは――微笑んだ。知性と優しさ、そして多分な悪戯心を併せ持つ者の笑いだ。
「……だそうよ。そろそろ出てきたら?」
 と、呼ばれて納屋から現れたのは、誰あろう、ミエルであった。頑丈そうな旅装束に身を包み、背には背嚢、手には木の棒(杖? それとも槍?)、頭はお気に入りの帽子をかぶり、騎士さながらの佇まいでアルテマを睨んでいるのであった。
「まさか」
 アルテマが口を開くと、間髪入れずにミエルは吠えた。
「行く!」
「ならぬ! 危険じゃ!」
 ミエルはただただ、首を横に振る。たったひとつの目に、見惚れるほど強靭な意志を込めて。
 大鬼ガリが、柔らかな眼差しを向けながら、ぽんと彼の肩を叩いた。
「こいつ、ずっと準備してたんだぞ。おまえさんが旅立つときには絶対一緒に行くんだ、ってな」
「行く」
 小さな騎士は、鼻息まで吹いて。
 その決意を、一体誰に止められようか。
「ミエルや」
「ん」
「行こう。わらわを助けておくれ」
「うん!」
 トト、と小走りにミエルが駆け寄り、アルテマの傍らにふんぞり返る。姫は胸を締め付けていた悲壮感が、雪の解けるように緩んでいくのを感じた。きっと、彼は助けになってくれよう。ただ、そこに在るだけでも。
 魔女はふたりに頷きかけると、手にぶら下げていた布包みを差し出した。
「じゃあ、あたしからも餞別よ。きっと役に立つわ」
 開けてみれば、それは仮面であった。街へ行く前、納屋の中で見た、あの仮面。魔法めいた不自然の純白に塗り込められた、何者ともつかぬ面。
「これは――」
 にやり、と魔女は笑って、
「《全き白の仮面》」




 2.全き白の仮面 了