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資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

プリンセスには、貌が無い 2.全き白の仮面/6

 夕暮れを迎えたモンの街路は、煮え滾る鍋の中にすら似ていた。美しく舗装された大街道に、今夜ばかりは数え切れぬほどの屋台露店がひしめき合う。食い物ならば、脂滴る炙り肉、山と積まれた焼き菓子、駄菓子、飴玉の類に林檎の蜜漬け、揚げ魚。飲み物ならば、麦酒、米酒、蒸留酒から果実のサイダー、冷やし飴。他愛もない玩具や飾りや縁起物、果ては怪しげな書画骨董に至るまで、良悪美醜委細を問わずあらゆるものが人々の手を行き交い、誰もが全身を楽器として、この日の興奮をひとつの旋律に謳い上げるのであった。
 街道の関所を守る番兵さえ、今日ばかりは酔っ払って使い物にならぬ。それぞれに懇意の女を連れこんで、日も暮れぬうちから面白おかしく運動に励むありさま(そちらのほうは、文句なく使い物になったと見える)。この国の王女として思うところはあったが、仮装した魔物の群れが街に入り込むには好都合である。
 アルテマは、逸るミエルに手を引かれ、小走りにモンへ駆け込んだ。ああ、なんという騒がしさであろうか! 王宮に暮らした彼女は、これまで何度もらんちき騒ぎに巻き込まれたことはあった。だがこれは、宮廷の、上品な音楽と節度ある笑いに彩られた宴とは全く違う。たとえるならば、ひとつの木に羽を休める百万の種類もまちまちな鳥達が、一斉にあらん限りの声で囀り始めたかのよう。
 そこら中で村娘が、青年が、あるいは大人ぶった幼い恋人たちが、果ては腰の曲がった爺婆までもが、調子っぱずれな音楽に合わせて勝手気ままに踊り狂う。それを奏でる吟遊詩人たちは、演奏の合間合間に酒瓶を引き寄せることを欠かさない。仮面のもの、仮装のものも数知れず。もはや誰が誰とも知れず、全て人々が混沌としてひとつであった。
 そう。人ならざる者どもさえも。
 そこらの青年が、アルテマの前にスゥと影のように進み出て、丁重に頭を下げた。その気取った間抜けな仕草は、しかしアルテマの心を楽しませた。ミエルが背中を押してくれた。おかげでよろめき、うっかり青年の手をとってしまい、そのままステップを踏む破目になってしまった。青年は概ね親切で、悪い気分にはならなかったが。
 振り返れば、ミエルもそこらの女性に捕まって、犬猫のように可愛がられている。おお神よ、いたずら者には相応の報いを。
 不意に青年がアルテマの手を離した。戸惑っていると、今度は別の女がアルテマを抱き寄せる。相手を変えてもうひと踊り。その次は小柄な少年。それから屈強な樵らしき髭面。誰もが優しい。誰もが笑っている。とうとうアルテマも笑い転げた。仮面の下。コロコロと、転がるような声のみを表に響かせて。
 次々に多彩な相手と手を取り合い、好き勝手に踊り、気に入らなければ離れ、気に入ってもいつかは離れ、その繰り返しに夢中になるうち、気がつけばすっかり日が暮れて、辺りは夜の蒼と篝火の紅に塗り分けられた。
 さすがに踊り疲れて、アルテマは道の脇へ抜け出した。あたりを見回すが、一緒に来た魔物たちはおろか、見えるの姿さえどこにもない。
「ミエル! どこじゃ?」
 呼びかけに応えて、ミエルがよろめきながら群衆を掻き分け現れた。小さく愛らしい彼は、魅力的なお姉様がたに絶え間なく愛撫され続けたと見えて、着物も撚れ、仮面も傾いていた。
「羨ましいのう、人気者」
 からかいながら仮面をつけ直してやると、ミエルは不機嫌そうにそっぽを向いた。
「やだ」
「可愛がられていたではないか?」
「かわいいって、みんな言う。ぼく、やだ!」
 今頃、仮面の下ではぷうと頬を膨らましているのだろう。男の子とはこうしたものか。うっかり吹き出してしまうところだったが、彼の矜持を思って堪えた。
「のう、ミエルや。いささか疲れた。そこの店で一服していかぬか」
 指差した先には酒場の看板。今日は戸板も外してしまい、祭り客に飲み物食い物を提供しているようだった。
 ミエルは首を横に振り、
「ぼく、蜜林檎、買ってきていい?」
「よいとも。わらわは中におるから、買っておいで」
 元気よく頷いてミエルは駆けていき、アルテマは店に入った。もう日も暮れたというのに、中はそれなりの盛況であった。威勢のいい店の娘が開いている席に導いてくれ、匂いたつ葡萄果汁を持ってきてくれた。アルテマは口をつけかけ、木のコップが仮面にぶつかる音を聞いて、ようやく自分が仮装のままだったことを思い出したのだった。
 素顔を見られたくはない。仮面を少し持ち上げ、下からコップを差し入れて飲んだ。果汁はたまらなく酸い味がしたが、それがかえって、燃えるような身体を心地よく冷ましてくれる気がした。
 周囲の客たちは、それぞれの興奮をそれぞれに満喫しているようだった。あるものは女を口説き、あるものはひたすら酒を喰らい、またあるものはテーブルに付して惰眠をむさぼる。あらゆるものが幸福に見えた。あるいは、その中にいる自分こそが幸福だったのか?
 いっそこのままで良い、と思えた。森の中で抱いていた焦りや無力感は、どこかに消え失せてしまった。父王は言った、社稷を安んじる者はそなたらを除いて他にないと。アルテマもそれを真に受けた。国を追われてこのままでいるわけにはいかぬ、と。だが実際はどうだ? この街の人々は、上の政変など素知らぬ顔で――事実知らないのかも――楽しげに暮らしている。
 ならば、それでよいのではないか? そうだ。森に戻って、魔女インバに相談しよう。この化物面でも畑仕事くらいは手伝えるやもしれぬ。そうして生きていこう。ときに街へ出て、こうして踊っていれば、憂いさえ吹き飛ぶ。それでよいではないか。
 アルテマの胸は、今やそんな希望で満たされていた。まるで、この陽気な踊り子の仮面が、彼女そのものになってしまったかの如く。
 果汁のふたくち目を飲んだとき、ふと、後から店に来た男が目に入った。引き締まった身体をした、背の高い、暗い目をした男だ。彼を見るや店主が声をかけた。男は疲れ気味に手を挙げて応え、アルテマの隣のテーブルに身を沈めるや、何か酒の名を呟いた。店主が酒瓶を手に、男の向かいに座る。その一挙一動を、アルテマはじっと見つめていた。なぜだろう、何か不快な――いや、不安な気配をこの男から感じるのである。
「お見限りでしたね、旦那。お姫さまはご一緒じゃないので?」
 ぎくり、とアルテマの肩が震えた。彼女のこと――ではない、ということはすぐに気づいたが。
 男は苦笑して酒をすする。
「ここんとこてんてこ舞いでね。女たちは別口で大忙しだ」
「そりゃあ残念。わたしゃ、あの子のファンなんだ」
「伝えとくよ。喜ぶだろうさ」
 早くも一杯目を飲み干して、男は、そっと店主に顔を近づけた。そこから先はほとんど囁き声になる。あえて聞こうと耳を澄ましていたアルテマ以外には、とても聞き取れなかっただろう。
「なあ。この街の様子はどういうことだ? どうして祭りなんかやってる……」
「はあ。そりゃ、毎年恒例ですから」
「てことは、やっぱり何も知らないんだな」
「何を?」
「王都でクーデターが起きた。9日前のことだ」
 店主が凍りついた。
 アルテマも、また。
「そりゃあ……ええ……? 一体どういうことで……」
「ザナク王の病死と同時に、王弟派が蜂起した。城は一晩で陥落。今、王都は門を閉ざして情報統制をやってる。しかし、ま、知れ渡るのも時間の問題だな」
「大事じゃありませんか」
「大事だよ。北の豪族や東南の軍閥あたりはすぐにも動き出すだろう。内戦になるかもしれん。
 あんたなら自治会にも顔が利くだろ。今のうちに、街として身の振り方を考えといたほうがいい……」
「あの……ですがね、旦那、王様にはお子さんがふたりもいたはずですよ。お姫さまがたはどうなったんです?」
 男は顔を曇らせた。そして、信じられぬことを口にしたのである。
「第一子アルテマは死亡。
 そして第二子ルナルは――王弟派に捕らえられて軟禁だ」
 脳が、揺れるかに思われた。
 第二子ルナル。
 囚われて、軟禁。
 叫び出したいのを、泣き出したいのを、アルテマは必死に堪えた。
 ――生きている。
   ルナは、生きている!
 果汁の代価を机に叩きつけ、アルテマは椅子を飛び降りた。そのまま駆け出し、戻ってきたミエルとぶつかり、そのまま勢い余って抱き合って、
「ミエルや! 帰ろう、すぐに帰るのじゃ!」
「えっ?」
「魔女に力を借りる。
 わらわには、やらねばならぬことがある!」
「あっ……」
 ミエルは何かを察したようだった。
 姫の手を取り、力強く頷くさまは、さながら栄誉ある騎士のよう。
「うんっ!」