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資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

プリンセスには、貌が無い 2.全き白の仮面/2

 老婆は魔女であった。驚くにはあたらぬ。このような森の奥に、大鬼小鬼に囲まれ暮らしているものが、魔女でなくてなんであろう。
 老婆は自らをインバと名乗り、アルテマ姫に癒しの魔術を施してくれた。傷の上に――といっても、あらゆる所が傷であったが――手をかざし、何やら得体の知れぬ呪文を唱えると、白い光が指先から仄かに滲み出て、すうっと痛みが引いていくのであった。
 インバ婆曰く、回復の魔法は得意ではない。この術は人が身体に備えている自然治癒の働きを促しているだけで、治るかどうかは本人の体力次第なのだ、と。
「だから、今はとにかくごはんをしっかり食べて、ぐっすり睡眠を取ること! オーケイ?」
 そう言って、インバ婆は器用に片目を瞑ってみせた。
 それから食事が始まったが、インバ婆や大鬼ガリの食欲ときたら並大抵のものではなかった。無数の皿に山と積まれた料理の数々――腸詰めのトマト煮込み、しだれ茸の素揚げ、鶏つみれの甘辛ソース掛け、そして燃えるように熱い蒸かしジャガイモ塩バター風味、等等(エトセトラ)、等等(エトセトラ)――を我先にと頬張り、しゃぶりつき、奪い合い、さながら戦場の如きありさま。呆気に取られるアルテマの前で、血で血を洗う大乱戦が繰り広げられた。その騒がしいことといったら、
「ちょっとガリ! それあたしの!」
「早いもんがちだ! あっ……オレの目玉焼きーっ!」
「へっへーん早いもんがちですよーだ」
「ずるいぞインバ! そういうつもりなら……隙ありーっ!」
「あーっ!? あたしの愛するタコさんウインナーをおおおおっ!? おにょれっ! この罪たとえ神が許しても、このあたしが許さあああああんっ!!」
 この調子であった。無限の容量を持つかに思える二つの胃袋に、肉も野菜もみるみる飲み込まれていく。アルテマはつばを飲み込んだ。涎がじわりと湧き出して、すっかり準備を整えているのが分かった。もっとも、口を開けるだけで酷く痛むアルテマは、どのみちスープくらいしか食べられないのであったが。
 彼女には、あの単眼の少年が付き添って、一口ずつスープを食べさせてくれた。インバたちが食べているあの皿の料理も旨そうだが、このスープも実に大したものだった。たっぷりの肉、野菜、豆、幾多の香草、大蒜などを、煮込みに煮込んでどろどろに煮崩して、しかも丹念な裏漉しによって品のある舌触りに仕上げている。一口含めば口いっぱいに広がる濃厚な生命の息吹。まるで野山の草木の一斉に芽吹くが如く。さらに喉の奥へ飲み下せば、腹の底からむくりむくりと活力が湧き上がる。まさに命の雫と呼ぶに相応しい。
 猛烈に腹の空いていたアルテマは、匙を差し出されるままに食べた。食べた。いくらでも食べられた。ついには一口を飲み下した後、次が来るのが待ち遠しくて、切ない吐息を漏らしてしまうのだった。単眼の少年はせっせと食べさせた。まるでアルテマの心の声を聞き、その希望に懸命に応えんとするかのようだった。
 夢中になって食い、ようやく満ち足りた時には、ゆうに小一時間が過ぎていた。
 食べ終えた途端、眠気が彼女に襲いかかった。抗えようはずもなかった。ずっと我慢強く給仕をしてくれた少年に一言礼を述べたかったが、朦朧とした頭では、舌はもはやろくに動かなかった。それどころか、自分はまだ彼の名前も知らないのだと気付いて、彼女は己の非礼と浅ましさを悔いた。
「ぼくはミエル」
 少年は何故か嬉しそうに頬を赤らめ、アルテマの上に暖かい布を掛けてくれた。
「いいの。いいの。眠って。ね……」
 言われるままにアルテマは目を閉じた。
 そして何か幸福な夢を見た――目が覚めた時には、その記憶はおぼろに融けてしまっていたが。