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資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

プリンセスには、貌が無い 1-3

 ベンズバレン軍急襲せりの報は物見の口から発せられるや瞬く間に知れ渡り、城内はさながら煮え滾る大鍋が如き狂騒に覆われた。貴族どもは大慌てで着慣れぬ甲冑を身に纏い、兵たちは混乱する指示に右往左往するばかり。場違いなドレス姿のユーナミア王女が作戦会議室を訪れても、それを咎めるものひとりいない有り様であった。
「和平だと、愚か者! 我が誇りあるシンジル将兵の面汚し、呆れた無能の敗北主義者奴!」
 父王の激昂は珍しいことではない。どころか彼が持つ叱責の語彙は他のあらゆる分野にも増して充実しており、その怒りを買った者は一口ごとに異なる多彩な罵倒を楽しむことができる。ユーナミアは父のこういう面が好きではなかった。己に向けられた言葉ではないにせよ、その抑揚の利いた激しい怒声は無垢なる乙女を震え上がらせるには充分すぎるほどだったのだ。
 しかしなぜか、今日に限ってユーナミアは平然と父の怒りを眺めている自分に気付いた。恐れるどころか、喚き立てる父が怯えた子鼠の如く感じられた。そう、怯えているのだ。突如来襲した大国ベンズバレンに。これから自分を襲う運命に。何より、状況が変わったという、その事実そのものに。
 父の後ろに歩み寄りながら、ユーナミアはそっと目元に指を這わせた。被ったままの“賢者”の仮面が、指先を通じて励ましてくれているように思えた。
「門を閉ざし、固く守り抜け! 我が要塞は……」
「恐れながら陛下、援軍のあてのない籠城は下策にございます」
「ならばなぜあてを作らぬ!」
「陛下」
 背後から突如聞こえた氷の如き声に、王は震え上がって振り返った。そこにいるのが愛娘――なんのつもりか妙な面を被っているが、それでも娘には違いない――であると気づき、だらしなく顔をほころばせる。
「おお、おお、姫よ」
「陛下、謹んで申し上げます」
「何故そのようにかしこまるのか。いつものようにお父様と呼んでおくれ」
「ユーナミアは争いを好みませぬ」
 父王は呆気にとられ、ぽかんと口を開いた。左右の側近たちはその一言で姫の意図を察し、期待に、あるいは焦りに色めき立った。主戦派にとっても和平派にとっても、これは全く予想外の干渉であっただろう。
「なんだと?」
「使者を送りなさいませ。ザナク王は戦場の人なれど、賢明な御方と耳にしております。今ならば相応の条件で和を結べましょう」
 父王がふらつきながら一歩歩み寄ってきた。小柄で、周りの将軍たちより頭一つ分以上は小さな父。しかしユーナミアにとっては誰よりも大きな存在であった。叱られるだろうか、生まれて初めて。王女は僅かに身を強張らせたが、それは杞憂に終わった。父は目に涙まで浮かべながら、そっと王女を抱きしめたのだった。
「おお……すまぬ。すまぬ。お前にまでそんな心配をかけていようとは」
 何人かの重臣たちが口を開き、言葉柔らかに姫の意見に賛意を示した。曰く、ザナク王は利に聡い男、損害なしに要求を飲ませられるならそれでよしとするだろう、と。王は何も答えなかった。ただ、姫の背を軽く撫でさすっただけだ。
「姫よ。部屋で寛いでおりなさい。決してそなたに危害は加えさせぬから。やつらをこの手で蹴散らしてくれる!」
「父上!」
「さあ部屋へ戻りなさい。誰か! 姫を送り届けよ!」
 ユーナミアが会議室から押し出されるや、背後では侃々諤々の議論が再燃した。姫は蚊帳の外。それはそうだ。女の身。そのうえ軍事も政治もまともに学んだことはないのだ。それでも胸の奥にやるかたない悔しさが湧き上がり、ユーナミアは、奥歯を噛み締めた。
 しかし、後宮へ戻るその帰路、急ぎ足に追ってくる者がひとり。
「姫様」
 呼び止められて振り返れば、それは先ほど父王に罵られていた和平派の将軍であった。将軍は一声でそばの女官たちを追い払った。人気のない廊下にふたりきり。姫は自分でも驚くほど冷徹に、
「何か?」
「姫様の深慮、感服いたしました」
「そう……」
 姫はついと顔を背けた。いかに感心してくれようと、父王を動かせなければなんの意味もない。そのことを今のユーナミアはよく承知していた。
「お願いがございます。どうか説得を続けてくださいませ。陛下はあの通りの気性のお方。なれど姫様のお言葉ならば……」
「聞き分けてくださるというの?」
 駄々をこねる子供を相手するかの如き言い草に、将軍は寸時言葉に詰まった。が、ついには、慎重に頷いてみせた。
「仮にそうだとしても、あの様子では何日かかることやら」
「二、三ヶ月は保たせてみせます。それが私どもの仕事です」
「そして陛下を口説くのが私の仕事」
「その通りでございます」
「それでは間に合いますまい。日を追うごとに交渉は不利になりましょう」
 将軍は目を伏せた。王女がこれほど聡明であろうとは思いもよらなかったのだ。日頃の、よく言えば愛らしい、悪く言えば愚かな振る舞いからは想像もつかぬ。まるで別人。いや、一人の人間が、ある側面を誰にも見せぬまま隠し持っていただけなのか。
「御意の通り。残念ながら我が軍は敵に比して大いに惰弱。戦えば戦うほど敵は我々の実態を掴んでいきましょう。実力がわからず警戒されている今が一番狙い目なのですが……」
「何とかしてみせましょう」
「は?」
 姫の目は、不気味な仮面の奥で、何か異様な光を湛えているように見えた。文字通り百戦錬磨の将軍でさえ、怯まずにはおれぬような光。
「準備をしておきなさい。すぐに交渉は始まるでしょう……そうね、おそらく、お昼ごろまでには」
「まさか……」
 姫はそれ以上何も言わず、後宮へ入って行ってしまった。将軍は少しの間そこに立ち尽くしていたが、やがて、弾かれたように駆け出した。信じるに足ると判断した。となれば、残された時間はごく僅かしかなかったのである。