読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

プリンセスには、貌が無い 改1-1

"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A13"God Save the Princess!"/The Sword of Wish


 今は昔、北の小邦に一対の仮面が伝わっていた。
 いずれも額から目までを覆う半面で、ひとつは雪の純白、いまひとつは新月の黒。金属とも石ともつかぬ未知の素材で造られており、触れれば指が凍り付くほどに冷たい。表面に施された細工は精緻を極め、光の当て方次第では氷塊さながらの澄んだ煌めきを見せたという。
 旧き戦乱の時代に何処かより略奪されたと思しきその宝物は、それぞれ“白痴”“賢者”なる故知らぬ名を与えられ、長らく宝物庫の奥に眠り続けていた。他の宝物が交渉材料に、贈り物に、あるいは王の物持ち自慢にと駆り出される中、ふたつの仮面だけがいつも手付かずのまま取り残された。
 というのも、いつの頃からか仮面にまつわる怪しげな噂話が囁かれるようになったからである。
「あれは尋常のものではない。神か魔の手になる呪物だ。そうとしか思われぬ」
 仮面を見る機会を得た幾たりかの幸運な(あるいは不運な)者達は、口を揃えてこう評した。笑みでも憂いでもない、およそ人間味を感じさせぬ曖昧な表情が、向かい合う者に得体の知れない不安を懐かせるらしかった。にも関わらず、何故か何度も目を向けてしまう。惹きつけられずにはいられないのだ。
 それは単に、意匠の妙が生み出した魔力であったやもしれぬ。だが細工師でも魔法使いでもない王宮の住人たちにとって、それは紛れもなく魔法の仮面なのであった。
 しかし、プリンセス・ユーナリアはこの面が気に入っていた。気になっていた、という方が正しいやもしれぬ。何かの折に宝物殿で一目見て、すっかり仮面に魅入られた。以来、正体不明の居心地の悪さに悩まされぬ日はなくなり、熱烈な情愛さながらに恋い焦がれ、とうとう父王に我儘を言って、半ば強奪気味に仮面を譲り受けたのであった。
「流行りのドレスよりあんなものが良いとはな。年頃の娘は度し難い」
 父王は苦笑しながら左右に零したものだ。
「この余から宝物を奪おうとは。この豪胆さはまさに王者の気質よ。いずれ迎えるべき婿殿はさだめし苦労するであろう」
 己の行為が王宮の心温まる笑い話にされていることは知っていた。しかし姫は一顧だにしなかった。略奪した宝に夢中であった。後宮の寝間に小さな壁掛け金具を取り付けさせ、そこに白黒一対の面を並べた。朝(あした)に声掛け、夕(ゆうべ)に微笑み掛けた。優雅なれど無機質で不気味な仮面は、いかにも乙女じみた寝間の調度には到底溶け込まず、侍女や乳母たちをたいそう怯えさせた。しかしユーナリアはそれすら気にも留めなかった。
 まるでこの仮面に向き合うことが、己の責務であるとでもいうかのように。
「きれい」
 あるとき、ユーナリアはふたつの仮面と見詰め合いながら囁いた。恋人に向けるかの如く、甘く、密やかに。己の発した声であるにも関わらず、ユーナリアはそれを耳にして得も言われぬ陶酔に導かれ、小さく身震いをした。下腹部に何かしっとりと潤むような疼きをも覚えたが、いまだ無知の美しさを保つ乙女のこと、それが如何なる感情であるかは自覚できずにいた。
「あなた、きれいね」
 仮面たちが揃って目元を緩め、微笑むかに思われた。
 ユーナリアは白痴の仮面を手に取り、戯れに己の顔へ着けてみた。覗き穴は糸のように細く、表面に刻まれた複雑な紋様の筋に偽装されている。ゆえに仮面越しに見える世界は極めて狭く、暗く、そのうえおぼろげであった。にも関わらずユーナリアは妙な――この心持ちをなんと呼ぶべきであろう?――知的興奮を味わっていた。
 ――私は世界の全てを見た。
 そう錯覚させるほどの何かが、このぼやけた視界の中に感ぜられたのである。
 ユーナリアは窓を押し開けた。厳寒の冬のことなれば、外は一面の雪景色。遥か彼方の稜線からすぐ眼下の庭園に至るまで白に覆われざるものはなく、その間に横たわる針葉樹林は死を思わせる静寂に包まれている。
 吹き込んでくる冷気さえ心地よい。ユーナリアは寝巻き一枚の身体を風に晒して、擽られるままに任せた。
 そうしているうちに姫は森の中にひとつ、何か動くものを見て取った。遥か遠くの、それも素早い動きであったので、彼女には黒い影のようにしか見えなかったが。
 ――何かしら?
 考えとも呼べぬ考えが閃き、思わずくすりと笑みを零す。
 ――うさぎ。うさぎさんが雪に戯れているのね。それとも、お友だちのパーティに遅れそうで慌てているのかしら。
 実に見事な推察と思われた。己の洞察力に気を良くしたユーナリアは、もっとよく確かめてみようと、仮面を付け替えた。白痴の仮面から賢者の仮面へ。何故、とは問うなかれ。“賢者”ならば、より素晴らしい思索をもたらしてくれると思ったのだ。
 賢者の目も白痴同様、細く不確かなものに過ぎなかった。が、確かにそれは、ユーナリアに先ほどとは全く異なる、より正確で、より恐ろしい結論を導いたのである。
 森の中に再び見えた影は、うさぎなどではなかった。他のどのような獣でも。しかし、何より最も獣らしいものではあっただろう。
 ――兵士。
 無知なる姫は、何故かこの時、遠い昔にひと目だけ見た忌まわしい紋章を思い起こすことができた。恐怖に震え上がるより一瞬だけ早く。
「敵だ」