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資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

“犬は涙を流さない”1

"S.o.S.;The Origins' World Tale"
EPISODE in 1313 #A09"Hime:
The Tearless Dog"/The Sword of Wish


 雲海は月光のもとに浮き上がり、その悠然と波打つさまは上等の天鵞絨を思わせる。黒黒と空一面に横たわる天幕、雄大なること言語に絶す。その中にあっては飛竜の巨躯さえ卑小に過ぎる。
 地上においては並び立つものとてないであろう巨竜が、ひどく動揺した様子で雲の上を飛んでいた。落ち着きなく辺りに目を配りながら、焦りを感じさせる素早さで、一直線に飛び去ろうとしている。まるで何か良からぬもの襲来に怯えているかのよう。
 そして胸の下では、何か小さく儚いものを、両手で大切に包み守って――
 と。
 不意に雲を突き破り、敵が下から飛び出した。
 鳥――いや、魚。飛行魚の一種に違いない。武装した人間どもの跨がる飛行魚が、ひとつ、ふたつ、いや数え切れぬほど姿を表し、竜の周りに殺到した。竜は喚いた。爆炎を吐き出し応戦した。だが如何せん敵の数が多すぎる。ひとつふたつ撃ち落としたとて何になろう。
 ぴたり追いすがる人間どもが、次から次へと《火の矢》を浴びせる。鱗が砕けた。肉が焼かれた。抉られた。翼は襤褸同然に引き裂かれ、竜は哀れを誘う悲鳴をあげた。と同時に緩めてしまった――宝物を抱きしめていたはずの掌を。
 焦りが悪寒となって竜を貫いたに相違ない。だが一足遅かった。零れ落ちた宝物は、為すすべもなく雲に飲まれた。竜が鳴く。弾かれたように飛行魚どもが転進する。雲海の中に飛び込んで、落ちた宝を掴まんとするが、分厚い漆黒の雲の中、それも月明かりさえ乏しい夜半のこと。誰一人として探り当てることは叶わなんだのである。

 宝は、大地に引き寄せられるまま、夜空を矢のように落下した。
 雲の下には街があった。夜半を過ぎて未だ眠らぬ、不夜城そのものの大都市。
 その片隅では見事な赤毛の犬が一匹、夜の散歩に興じていたが――胸騒ぎを覚えて見上げ見た空に、小さな、点の如きものを認め、すぐさま風よりも速く駆け出した。何故? 知らぬ。理由など要らぬ、その犬には。何かが――誰かが遥か高空から落ちてきて、今にも墜死しようとしている。それ以上、どんな理屈が必要であろう。
 小道駆け抜け、広場横切り、水路を3つ飛び越えて、緋女は人間に変化した。左右の壁を蹴って跳躍、軽々と屋根の上まで飛び上がり、キッと夜空を仰ぎ見る。
 見えた!
 と思うが早いか緋女は走った。屋根の端まで目一杯に助走をつけて、翼あるものの如く宙を舞い、落ちてきたものを胸の中に抱き留める。
 そしてそのままもろともに、背の低い植え込みの中に落着した。
「痛え」
 ややあって、緋女はぶつぶつ文句を垂れながら植え込みを這い出した。痛い。特にお尻が痛い。いちおう木々の柔らかそうなところを狙って飛び込みはしたものの、小枝で尻を引っ掻くのは避けられなかった。なんでこんな痛い目を見てまで正体不明の落下物なぞを受け止めてしまったのか、今になって自分の考え無しが恨まれた。が、ま、体が動いてしまったものは仕方ない。
 胸の中で、その落下物がもぞりと動いた。柔らかな橙色の塊を目の前にぶら下げ、まじまじと観察する。長い首。鞠のような体。短い手足に、そして、申し訳程度にちょんと添えられた一対の翼。
 緋女がぽかんと見ていると、その橙の生き物が、ゆっくりと瞼を開いた。長い首を巡らし、緋女の姿を認めると、ぴ、と図々しくも落ち着いた声で一声鳴く。
 緋女は、眉と口元をいっしょくたに歪めた。
「なんだテメーは?」
 などと問うまでもあるまい。
 竜のヒナ。それ以外の、何者でもなかった。



勇者の後始末人
第9話“犬は涙を流さない”