資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

“ここへ、必ず”2

 砂漠の夜はあまりに深い。ヴィッシュには、もうその闇が見通せぬ。
 力尽きた馬を乗り捨て、砂の上を我が足で歩きだしてから、どれほどの時が過ぎたろう。容赦なく熱線を浴びせるあの忌々しい太陽は、やっと地平の下に没してくれた。とはいえその太陽さえ、荒野が持つ残忍な牙の、ほんの一本に過ぎぬ。渇きは体を薪の如く枯れさせ、風と共に吹き寄せる砂礫は肌を金鑢の如く削り取り、毒虫が気づかぬ間に這い寄ってくる。さらには柔らかすぎる砂が、一歩ごとに足首へ絡みつき、じわりじわりと彼の体力を奪い取っていく。
 自然の猛威を前にしては、日除けの上衣も、防塵布も、たっぷりの水筒も役には立たぬ。浅はかな人の備えの全てを嘲笑うかのように、砂塵は吹き荒れ、ヴィッシュを苛み続けた。
 それでも、足を止めるわけにはいかない。
 彼の望むものは、望みうるものは、この荒野の先にしか存在しないのだから。

 魔王が倒された、との噂を耳にしたのはついひと月前。傷病兵の収容所でのことだった。
 各地を荒らし回っていた魔王の軍勢も、ついに撤退を始めたという。今頃内海沿岸の至るところで凄惨な追撃戦が行われていよう。奪われたものを奪い返し、殺された者が殺し返す、報復と名誉の戦争だ。もし、あの時仲間たちを失っていなければ、今ごろヴィッシュもその中に混ざって、正義の略奪に味を占めていたやもしれぬ。
 いや、それどころか。あのまま戦い続けていられたら、魔王を倒すのは他ならぬ“勇者ヴィッシュ”であったやも――
 しかしそうはならなかった。ヴィッシュは敗れ、失い、倒れた。歴史に“もし”はない。全ては終わった。ヴィッシュは、勇者にはなれなかったのだ。
 戦乱の終わりを遠い異世界のことのように感じながら、ヴィッシュはぼんやりと収容所の天井を見つめ続けた。そしてある時、唐突に、突拍子もない考えが浮かんだのだった。
 もし。
 もし過去を、変えられるとしたら?
 昔、恩師の書庫で読んだことがある。“時の澱み”の神殿。《時》に仕える魔女のみが口伝する聖域。そこには《時間遡行》の秘術を記した石碑が眠っており、ただひとり、冒険者オートクアールのみがその秘跡に触れたという。
 伝承、などと言うのもおこがましい、ただのお伽話、与太話だ。かつて書物の中にこの話を読んだヴィッシュは、続きを読む価値なしと断じて捨て置いた。
 しかしこの与太話が、真実であるとすれば?
 今の自分なら。未来知る自分なら。あの時、あの瞬間に戻って仲間たちを救うことができるはず。
 まともではない。そんな不確かな可能性のために命をかけようなどと。そうかもしれぬ。正気など、とうに失われていた。あったところで役にも立たぬゆえ。
 ともあれ、ヴィッシュは手早く支度を整え、収容所を飛び出した。噂を頼りに魔女を探し、“時の澱み”の在り処を聞き出した。そして、迷いなく死地に飛び込んだ。
 ルドンの砂漠は灰の砂漠。なべて命の炎燃え尽き、積もるは灰色の砂礫のみ。足を踏み入れるなど正気の沙汰ではないと、途中出会った人々に百万遍は警告されたことだろう。今、その恐ろしさの片鱗を、ヴィッシュは我が身で存分に味わっている。
 それでも、引き返すわけにはいかぬ。
 生きる理由がこれのみならば、引き返すことは――死、そのものであったのだ。