資材置場

いまだ作品の形にならぬ文章を一時保管する場です。

ド・ブロイの異脳狩人/Take1-4

 教室に戻ったときにはもう代数の講義が始まっており、《|気晶显示《ディスプレイ》》いっぱいに余弦定理の証明が表示されていた。K.K.が遅刻を謝ると、教師は強張った表情のまま席につくよう指示した。よくあることだ。珍しくもない。
 だが、窓際の席まで歩く途中、K.K.は自分を包む異様な空気に気づいた。注目されるのは慣れている――だが、何かが違う。羨望でも嫉妬でもない。強いて言えば――好奇?
 助けを求めて|梓《アズサ》を探す。彼女は遠くの席で、隣に並んだ|宇博《ユーハウ》と何か囁き交わしている。こちらを見てさえいない。
 音を立てぬようそっと席についた時、突如頭の中で声が響いた。
 ――四つ。
 K.K.は小さく震え、声の主を求めて周囲に視線を巡らせた。しかし生徒たちはみな一様に、教師の話に集中するふりをしている。
(なんだ? 今の?)
 何かおかしい。今日は朝からどこかが変だ。自分は何か、ひどく重大なことを見落としている――そんな気がした。
 その時、ふと視界の隅、窓の向こうの体育館の屋根の上に、黒く小さな人影が見えた。
 K.K.は椅子を蹴って立ち上がった。
 教室中の視線が集まる。
「K.K.?」
「あ、あー」
 K.K.は一瞬考え、
「トイレ行ってきます」
 呆然と自分を見つめる数十の目の前で、K.K.は力強く、うん、と頷いた。
「生理で!」

 廊下に出るなりK.K.は駆け出した。確かに見えた。あの屋根の上。瞬きひとつする間に消えてしまったが、確かに人の姿があった。夜そのもののように暗く、狩人の弓のようにしなやかで、野生の獣のように美しい。
 |黒霧《クロム》タカセ――異脳狩人。
 夢で見たのとそっくり同じ、狩人の姿がそこにあったのだ。

ド・ブロイの異脳狩人/Take1-3

 だが、彼女の納得に楔を打ち込もうとするかのように、校庭の向こうに2つの影が現れた。はじめK.K.はそのうちひとつ――童顔の若き政治家のほう――のみを認め、飛び上がって手を振った。
「|小博《シャオボー》!」
 しかし、クソ真面目な顔して手を振り返す|李博宇《リー・ボーイ》の後ろに、黒々とわだかまる夜そのものの浮き出たような影を見、K.K.の顔は凍り付いた。両脇の友人たちも庇ってはくれない。
「イシュトヴァーン伯父様……」
 この恐るべき老人を前にしては。

  王朝|六常侍《りくじょうじ》がひとりイシュトヴァーン卿にかかっては、一種の治外法権を黙認された学院といえども平身低頭言うがままになるしかない。学院長は自らK.K.たちを応接室に案内してくれ、給仕のような愛嬌で飲み物の注文まで取ろうとした。|博宇《ボーイ》が慇懃にそれを拒絶し、応接室から学院長を追い出す。
 K.K.はイシュトヴァーン卿と一対一で向かい合わせに腰掛け、固い顔をしていた。この世界の実質的統治者たる伯父のことが、K.K.は昔から苦手だった。亡母からみれば、卿は30以上も歳の離れた兄であるらしい。だが記憶の彼方にある優しげな母の肖像と、この厳しい老人の顔は似ても似つかない。長く垂れた灰色のあごひげが針金のように固く揺れ、岩の擦れるような声が薄い唇の奥から漏れ出した。
「変わりはないか、K.K.?」
「ええと、その」
 応接机の下で膝が震えている。卿の背後に直立不動の|博宇《ボーイ》が見えるのだけが小さな救いだった。K.K.は拳を握りしめ、勇気を奮い立たせて返答する。
「はい。元気です」
「役目を受け入れたというのだな」
 役目。|王神《K.K.》という役目。やり手の伯父の前に立ち、傀儡として愛らしく振る舞う大切な役目。
「そうです――何年も前から」
 イシュトヴァーン伯父が妙な顔をする。|博宇《ボーイ》に目配せをする。|博宇《ボーイ》が口を開く――明らかに戸惑っている。
「K.K.、本当に変わりはございませんか? 何か――心身の不安であるとか、わだかまりのようなものは」
「ぜんぜん? 元気だよ。んー……朝、すごく寝汗かいてたけど、怖い夢を見たから多分そのせいで……」
「よろしい」
 イシュトヴァーン伯父が立ち上がった。こうして見上げると伯父の長身は眼前に立ち塞がる断崖絶壁のようだ。
「近いうちにまた話すことになるだろう。忘れるな、K.K.。余人にお前の代わりは務まらぬ。この世でただひとり、お前だけが……」
 伯父はそこで激しく咳き込み、|博宇《ボーイ》に背を擦られた。だが若者の気遣いを乱暴な手付きで払い除け、足枷を引き摺る囚人のような足取りで出て行ってしまった。後に残された|博宇《ボーイ》は気を悪くした風もなく、主人の不機嫌な背中にそっと頭を垂れる。
「伯父様のお付きも大変だね、|小博《シャオボー》」
「そろそろ|小博《シャオボー》はやめてもらえませんか、いい歳なんですから」
「まだ30歳にもならないでしょ。若い若い。まだいけるって! 私、|小博《シャオボー》だったら付き合えるなー」
「ご冗談を」
 |博宇《ボーイ》が耳まで真っ赤になって目を逸らす。からかいがいのある愛らしい男。まだ母が生きていた頃、彼のことを|小博《シャオボー》と呼んで可愛がっていたのを覚えている。K.K.にとっては数少ない母の記憶のよすが。数少ない、本音を出せる相手のひとり。
 その|博宇《ボーイ》が、妙に改まった様子でK.K.の前にひざまずく。
「K.K.……もし、もし何か……困ったことがあったら、朝廷に来てください。私が力になりますから」
「うん。いつも頼りにしてるよ」
「光栄です……それでは、また」
 |博宇《ボーイ》が出て行った。
 ひとりになるや、K.K.は愛想笑いをあっさり捨て去り、小首を傾げる。
(なんか普通じゃないな……なにか起きてる? なんだ?)

ド・ブロイの異脳狩人/Take1-2

 校門の周囲に溜まって熱い視線をくれるクラスメイトたちへ、さりげない微笑を配り、背筋をピンと伸ばして一声。
「おはよう、みんな」
 反応はさまざまだ。舞い上がってうわずった挨拶を返してくる男子。よそ行きの顔で応える女子。照れて無言でそそくさ立ち去る者が数名。露骨な侮蔑と羨望の色を全身に現しながら無視を装うものも幾ばくか。だが、誰にも無関心は許さない。K.K.の立ち居振る舞いには、それだけの迫力があった。
 生徒たちの波を割って校庭に入ると、いつものメンバーがその歩みに合流してきた。|宇航《ユーハウ》――長身の男子、成績も良くて運動もできる、そのうえ金持ち、当然モテる。|梓《アズサ》――抜群のスタイルを誇る美女、人当たりが良くて誰にでも愛される、そしてもちろん、背が高い。やめてくれ。左右を挟んで立たないでくれ。こう並ばれると、ちんちくりんのK.K.は、さながら古代の文献にある“捕らえられた|宇宙人《リトル・グレイ》”だ。
「おはよう、《《クリス》》」
「おはよう、アズサ」
「今日もモテるね」
「うるさいよ、|宇航《ユーハウ》」
 知り合いは多いが、K.K.を本名で“クリスティーン・|姫《ジィ》”と呼ぶのはこの二人だけだ。その距離感……というよりも、K.K.の心情を慮って、努めて気楽に振る舞ってくれるその気遣いが、嬉しくもあり、痒くもあり。
「ところで|宇航《ユーハウ》。後でよろしく」
「またー? 宿題くらいたまには自分でやったらどう?」
「やるつもりだったんだよなーっ。なんで出来なかったかなーっ。昨日の夜何してたっけーちょっと記憶がーあー」
プレッツェル、おごりな」
「足元見やがって……あれ? アズサ、バイオリンケース? 今日音楽あったっけ!?」
「ないない。間違えて持ってきちゃっただけ。水曜かと思って」
「マヌケー。今日、金曜よ」
「月曜だよ」
 と|宇航《ユーハウ》。そして3人で、ケラケラ笑う。
 これが舞台のお芝居なら、それでもいいかとK.K.は思う。自分が|王神《K.K.》であるがゆえに、ありのままの関係は望むべくもない。だが、心地よく楽しく心躍る時が過ごせるなら、一体何の問題があろうか?
 たとえこの場の全てが、偽りに過ぎなかったとしても。

ド・ブロイの異脳狩人/Take1-0


(キャッチコピー)

好きでもない男たちに、かわるがわる殺される。



(紹介文)


 《|廣汎化《ユニヴァリゼイション》》の波が全地球を飲みこんで、もう半世紀になる。人類の進化と社会組織の理想化を謳った叡智の播種は、結局のところ、新世代の|汚穢《おわい》という果実のみを後に遺した。

 テクノロジィが創ってしまった、ヒトにしてヒトならざるもの。
 ヒトの中の怪物性の解放。現代に潜む邪悪の化身。あらゆる神話と魔法が遠い過去のものとなった時代に、突如具現化したファンタジィの住人たち。

 《異脳》。

 《《それ》》は誰にでも潜んでいる。
 欲望、不合理、自分さえ良ければ他のものなど知ったことかというきもち。
 その他もろもろの悪徳が、ヒトをヒトの殻から解き放つ。

 つまり――あらゆる街角にモンスターが棲んでいる時代がやってきた、っていうことだ。



 時は、AE56年。
 天は“王朝”に支配され、地には《異脳》どもが溢れ、凡人たちは絶望の中、辛うじて生にしがみついていた。

 そんな混迷の時代に、どこからともなく湧き出した戦士たちがいた。
 称賛も受けず、寄る辺さえ持たず、銃と、カタナと、安売りの命とを武器にして、《異脳》を闇から引きずり出しては、ただひたすらに屠りつづける、返り血に汚れたハンターたち。
 人は彼らをこう呼んだ。

 ――ド・ブロイの異脳狩人と。







0 異脳狩人


 追い詰められたK.K.は、手頃なコンクリート片を引っ掴む道を選んだ。女の子《《らしく》》震えて死を待つなんて、思いつきもしなかったのだ。
 ここは|積層都市構造物群《レイヤード》|最下層《ローアモースト》デルタ・ブロック、通称“スクラップ通り”の市内線駅。全ての|列車《ハコ》が緊急停止し、利用者も駅員も逃げ出してしまった無人のプラットホームには、今や息のつまるような静寂ばかりが残されている。その最も隅の、最も目立たない柱の陰で、K.K.は最前から、じっと息を潜めている。
 隣では、K.K.より4、5歳は幼いであろう、10歳かそこらの少年が、必死に哭くのを堪えようとしている。K.K.と関わりのある子ではない、単にたまたま駅で近くにいただけの他人だ。しかし、連れて逃げずにはいられなかった。
 彼と一緒にいた母親は、《マクローリン|獣《けもの》》に叩き潰されて、死んだ。よく熟れた|紫外《UV》フルーツが弾けるようにだ。
 K.K.は、己の不運を呪わずにはいられなかった。
 確かに、|最下層《このあたり》には、かなり《《多い》》と聞いていた。だが、まさか初めて足を踏み入れたその日に、いきなり《《やつ》》と出くわすなんて――
 ――と。
『明るく前向きであれ!』
 |紫外《UV》フルーツの破裂音。
 K.K.は固く目を瞑り、体中の筋肉を引きつりそうなほどに強張らせ、恐怖を奥歯で噛み締めた。
『ひとつ! 笑顔で対応! ひとつ! 常に明るくプラス思考!』
 くぐもった《マクローリン|獣《けもの》》の声が響くたび、液体がぶちまけられる不愉快な音がそれに続いてプラットホームを駆け巡った。耳ざわりのいいお題目とともに繰り出される地獄のような暴力。K.K.たちと同じようにどこかに隠れていたであろう被害者が、今どんな目に遭っているのか――うっかり詳細に想像してしまい、猛烈なストレスのために胃液が喉まで逆流してきた。
 K.K.はコンクリ片を腿のそばまで引き寄せた。人工岩石の重みと冷たさが足に伝わり、ギリギリのところで恐慌と嘔吐を食い止めてくれた。
 瞼を開く。震える少年の背中が視界に入る。
 すると不思議なことに、K.K.の恐怖が、閉店時間を迎えた|飲食店《ダイナー》の照明めいて静かに引いていき、そのうちに消えてしまった。後に残ったのは、奇妙に落ち着いた心持ちだけだ。
 戦力どころか足手まといでしかない怯えた子供が、どうしてこうまで彼女を宥めてくれたのか、それは全く分からないが。
『明るく……前向きで……』
 《マクローリン|獣《けもの》》の声がようやく止み、代わりに、重い足音が聞こえだす。
 向かってきている、こちらに。間違いない。
 死は時間の問題だ。
 K.K.は柱から身体をはみ出さないよう気を付けながら、少年の肩に手を載せた。彼が涙目をこちらに送る。K.K.は自分でも驚くほど優しく余裕のある笑顔をして見せ、声には出さず、唇の動きだけで言葉を伝えた。
「だいじょうぶ。私が守ってあげるからね」
 そして、固くコンクリ片を握る。
 途端、闘志が湧いてきた。
 雄叫びあげてK.K.は飛び出す。《マクローリン|獣《けもの》》の脳天に、両手で振り上げたコンクリートを力任せに叩き込む。
 頭蓋の割れる音がして、《獣》の巨体が床に這いつくばった。
 やった! と思うと同時に、生物的で根源的な言いようもない恐怖が再びK.K.の内臓を掻き乱した。そうなるだけのおぞましさを、《マクローリン|獣《けもの》》は持っていたのだ。
 やつの姿は、辛うじてヒトであったころの痕跡を残している。少なくとも顔や手のひらは人間のそれだ。しかし体長は実に5メートル余り。《獣》そのものの仕草で四つん這いになり、背骨を猫のごとく醜く丸め、椎骨の突起を青ざめた肌の下に浮き上がらせているのだ。先ほどまで――本性を現すまで――着ていたスーツ一式はとうに弾け飛んでいたが、異様に細長い首に、洒落た柄のネクタイだけが頼りなくぶら下がっている。
 その首が呻き声と共にもたげられ、憤怒も憎悪もない、気色悪いまでに虚ろな双眸がK.K.を捉える。
 今の一撃が効かなかったわけではあるまいが、あの程度で殺せるほど《獣》はかわいいものではないということだ。
 だが、そんなことは|端《ハナ》から分かっている。
「こっちだ! 来いッ!」
 雄々しく叫んでK.K.は駆け出した。《獣》の脇をすり抜けプラットホームの入口へ。《マクローリン|獣《けもの》》が、何かわけのわからない鳴き声をあげるのが背後に聞こえた――
『悪いのは|顧客《クライアント》ではない! 大きな声であいさつ!!』
 その声のうきうきと弾んだことといったら、まるでクリスマスプレゼントを得た子供のよう。
 《獣》の四肢が蟲めいて蠢く。異様な巨体が、猛然とK.K.を追い始めた。その姿をちらりと後ろ目に捉え、K.K.は通路を折れて地上への階段に飛び込んだ。
(そうだ。来い。あの子に気付かないくらい、夢中で私について来い!)

 アルミニウムの手すりを|拉《ひし》ぎ、改札のバリケードを蹴散らし、鉄筋コンクリートの列柱をすら粉砕して、《マクローリン|獣《けもの》》が追ってくる。K.K.は走る。力の限り走る。広い空中通路に飛び出し、今や障害物でしかないベンチを踏み越え、傷だらけのアクリル製ドアに飛びついて。
〔いらっしゃいませ〕
 完全に自動化されたゲートが呑気に歓迎の言葉を述べながらモタモタと開いていく。K.K.は細い体を横にして狭い隙間に捻じ込んだ。すぐさま走る。後ろでまたゲートがしゃべりだす。
〔いらっしゃ……〕
 ぶ厚いアクリル板の粉砕される音がそれに続いて、それっきりゲートは沈黙した。
 泣きたい。泣いて立ち止まってしまいたい。
 K.K.を突き動かした勇ましい義侠心はいつのまにか消え失せ、今は猛烈な後悔だけが残っている。放っておけばよかった。じっと隠れていればよかった。あんな恐ろしいモンスターに、立ち向かおうなんて馬鹿だった。ましてや――見ず知らずの子供を助けるために自分が犠牲になろうなんて。
 映画なら、そろそろハンサムな|騎士《ナイト》さまが助けに来てくれる頃合いだ。他の惑星から飛来した正義の|超能力《スーパーパワー》マンか、差別に苦しみながらそれでも戦う|変異種《ミュータント》戦士か、さもなくば|巨大機械《メガ・ロボット》兵器に乗った思春期の少年か、そんなものが結局ヒロインを助けてくれる。
 だがそんなこと、あるわけない。なぜならこれは《《現実》》だ。
 一足ごとに恐怖がつのる。息は上がり、足は棒になり、身体と精神の限界が近づいてくる。止まりたい。休みたい。座り込んで、寝転がって、もう何もかもどうでもいいと、無責任に投げ出してしまいたい。
 なのに、厳然たる未来予測が立ち止まることを許してくれない。
 止まれば――死ぬ!
 涙を目尻に溜めたまま、闇雲に走り回り、駅ビルのショッピング・モールに駆け込んだところで、ついにK.K.の精神は臨界を超えた。映画の中でさえ見たことのない恐るべき光景が、何の心構えもできていない彼女の目に突如飛び込んできたのだ。
 広い食品売り場一面の、壁という壁、床という床、あらゆる商品棚とプラスティック・パックの上に、叩き付けられ、へばりつき、赤黒い滴を今でも垂らし続けている――死体の、山。
 肉という肉が内側から弾けたように飛散して、潰れた脳と、原形をとどめたままの指が、絡まり合いながら壁紙になっている。飲料水のボトルには腕が何本か紛れていたし、床は、もともと何の部位だったのかも分からないようなグチャグチャしたものに覆い尽くされていた。なのに、そうした赤一色の景色の中に、無数の眼球だけが浮き上がるような白さで点在しているのだ。
 ふと横手を見ると、キンピラ・ゴボウのパウチ・パックが整然と並ぶ上に、頭蓋から剥がれ落ちた人の顔面が貼り付いていて、驚き顔のそいつと、目が合った。
 脚が止まった。
 呆然と、ただ呆然と、K.K.はそのありさまを、とりわけ、キンピラ・ゴボウの上の顔面を見つめ続けた。気持ち悪い。吐きそう。怖い。自分の身体と心には確かに異変が起きていたが、K.K.はそれを妙に冷静に、他人事のように観察していた。
(本当に怖いと、人間ってこうなるのか)
 糸が切れた人形のように力が抜けて、血に濡れた床に尻餅をつく。
 すると、なぜか、笑い声が零れた。面白いことなんて、何もないのに。
「うふっ……」
 もう、走ることは、できない。
 背後で物音がした。K.K.がへたりこんだまま首だけをそちらに向けると、《マクローリン|獣《けもの》》が、長い首を食品売り場のゲートからニュッと差し込んできて、『やあ』というみたいな、気さくな笑顔をこちらに向けた。
『笑顔で対応』
 K.K.は、そこで確認した。
(そっか。私、死ぬんだ)
 そして、《|獣《けもの》》が少女を引き裂く。

 ――そのはずだった。
 ふとK.K.は我に返り、おかしいな、と思った。なぜ死んでいないのだろう? 身体も全然痛くない、走りすぎでヒリつく気管を除いては。数秒の間、思考とも呼べない曖昧な電気シナプスの活動を続けたあと、ようやく彼女は自分がずっと床を見つめ続けていたことに気付き、さっきものすごい音が聞こえたことを思い出し、視線を持ち上げてみることにした。
 ゆったりと弧を描く、長身の女の背中がそこにあった。
 荒れたボロボロの黒髪。得体の知れない腐臭が染み付いたコート。左には黒光りするカタナの鞘、右には拳銃のホルスター。腰の後ろに横差しに差された大振りのコンバット・ナイフ。腿のスロットには何かの液体が満ちた|薬剤瓶《アンプル》。右手にぶら下げられた抜き身の大刀は艶めかしいまでの輝きを見せ、左手では、銃身切り詰めたショット・ガンが、白い煙をゆったりと吐いている……
 K.K.は馬鹿みたいに口をポカンと開け、女の背中と、その向こうでのたうち回る《マクローリン|獣《けもの》》の姿を交互に見やり、間抜けた声で呆然と呟く。
「……|騎士《ナイト》さま?」
 しかし女は、ハ、と小さく鼻で笑い、
「違うね」
 片手で器用にショット・ガンを|再装填《リロード》し。
「ただの害虫駆除業者さ」

 |騎士《ナイト》が奔る。肉迫までミリ秒。呻く《|獣《けもの》》の顔面を太刀で横薙ぎに薙ぎ払い、悲鳴を上げる《《それ》》の鼻先に|零《ゼロ》距離からの|4番弾《フォアゲイジ》を叩き込む。
 轟音。白煙。跡形もなく消し飛ぶ顔面、辛うじて残る下顎と不揃いの歯。
 《マクローリン|獣《けもの》》の絶叫が止まり、しかしその身体は脳を失ってなお反撃のために動き出す。横手から風を唸らせ剛腕が襲い掛かる。だが頭を潰した程度で《《やつら》》が止まらないのは想定済み。
 |騎士《ナイト》は身体をかがめて紙一重に拳をかわし、伸び上がりざまの一撃で《|獣《けもの》》の腕を斬り飛ばす。痛みにのけぞる敵の懐に我から飛び込み太刀を振るい、腹を横一文字に両断するや流れるように脚の下から滑り出る。一瞬遅れて《|獣《けもの》》の巨体が床に突っ伏せ、その背骨を、大上段に振り下ろされた白銀の刃が叩き割る。
 噴水のごとく噴き上がった血飛沫が、|騎士《ナイト》のミラーグラス・ゴーグルを斜めに汚した。
 K.K.は――ただ、その戦いに見惚れていた。
 生まれて初めて見る本物の戦い――《《殺しあい》》。
「きれい……」
 K.K.の場違いな感想は彼女に届いていたのだろうか? |騎士《ナイト》が《|獣《けもの》》の背中を踏みつけ、めり込んだ刀身を力任せに引き抜きながら、錆びた鉄扉の軋みを思わせる重低音で警告する。ミラーグラスと返り血のために視線は読めない。
「下がっていろ」
「えっ?」
「まだ終わりじゃない」
 と。
 彼女の言葉を証明するかのように、《|獣《けもの》》が動いた。
 尻の肉が突如として蠢き、盛り上がり、太い尾が間欠泉めいて素早く《《生えてくる》》。いや違う、尻尾ではない。伸び上がった肉塊の先には鰐に似た大顎と牙が造形されている。
 ――ふたつめの頭!
 と凍り付くK.K.の目の前で《マクローリン|獣《けもの》》が跳ね上がり、|騎士《ナイト》を軽々と弾き飛ばした。いつのまにか《|獣《けもの》》の腹の下には《《5本の脚》》が、それも関節の異様に多い滅茶苦茶にねじくれた脚が生えていて、それが一斉に|発条《バネ》のごとく伸び上がったのだ。
 さらに、銃撃で吹き飛んだひとつめの頭が蛇のようにうねりながら再生する。その表面の肉を突き破って無数の歯が生え出し、棘に覆われた巨大な鞭となって、空中の|騎士《ナイト》に襲い掛かった。
 宙に投げ出され、走ることも跳ぶこともできない|騎士《ナイト》は、その重打をまともに受けた。骨の軋む強烈に不快な音がそこらじゅうに響き渡り、思わずK.K.は息を呑む。|騎士《ナイト》の身体が床に弾み、そこに《|獣《けもの》》が飛び掛かり、次々振り下ろされる踏みつけの中、|騎士《ナイト》は転げるように逃げ回る。
『ひドつ! 明るる前向きだれれ! 大きなあいさ! 声!』
 《|獣《けもの》》が新しい口で、もはや人語の|態《てい》を保てなくなった雄叫びをあげる。異形の巨体を引きずり、楽しそうに|騎士《ナイト》を追い詰めていく。一方の|騎士《ナイト》は傷ついた血塗れの身体でふらつきながら後退し、ついには壁に背をついた。
 大顎が矢のように唾液を迸らせ、|騎士《ナイト》の胴を咬み砕く――その直前。
 |騎士《ナイト》の身体が忽然と消えた。《|獣《けもの》》の牙は空しく宙を咬み、勢い余って鼻先をコンクリートの壁で叩き割る。遠くから見ていたK.K.でさえ、彼を一瞬見失った。
 |騎士《ナイト》は今、《|獣《けもの》》の頭上の空中にいる。天井から片手でぶら下がっているようにも見えるが、ワイヤーらしきものはどこにも――いや、あった。よくよく目を凝らしてみれば、照明を浴びて微かに銀色の糸が輝いている。
 あれは、《|単分子鞭《ダンシング・ソード》》。常識外れの強度と細さを併せ持つワイヤーだ。あらかじめ天井に打ち込んでいたのだ。敵の動きを完全に予測したうえで。
 つまり――追い詰められたのは、《|獣《けもの》》のほうだ。
 |騎士《ナイト》が腿の|薬剤瓶《アンプル》を抜き取り、蓋をカチリと鳴らして《|獣《けもの》》の背中に放り捨てる。次の瞬間、
 炸裂!
 耳がおかしくなるような轟音と、閉じた瞼さえ貫く閃光が噴き出して、《マクローリン|獣《けもの》》の巨体をコンクリートの壁ごと駅ビルの外に吹き飛ばした。|騎士《ナイト》が敵を追って出ていく。
 一方のK.K.はといえば、危うく爆風を浴びかけたものの、目の前に飛び込んできた黒い金属の塊に庇われて無事だった。
〔お怪我はありませんか? お姫さま〕
 自らのボディを盾にしてK.K.を守ってくれたのは、黒塗りの自動車だった。運転席には誰もいない。《|知能《ジ・インテリジェンス》》に接続された《お喋り車》だ。その制御|構造物《ストラクチャ》が、悪戯な少年めいたきれいな声でべらべらと歯の浮くようなお世辞を並べている。
〔ああ、美しいおかたよ。あなたに出会えた僕は史上最高の幸せ者です。おっと、今の爆発でボディについた傷のことは気になさらないでくださいね。なぜならば――〕
 車は器用に旋回してK.K.に正面を向け、片方のヘッドライトを明滅させてウィンクした。
〔あなたへのご奉仕が僕の歓び!〕

 女が噴煙を切り裂いて外に歩み出ると、《マクローリン|獣《けもの》》は|塵《ゴミ》溜めに頭から突っ込み、火傷と骨折と裂傷のために断続的な痙攣を起こしながら、それでもまだ死にきれず、言葉にならない呻き声をあげているところだった。
 彼女は腿のスロットから《|竜火液《スピッター》》とは別の|薬剤瓶《アンプル》を抜き取り、蓋を取って露出させた針を左手首に突き立てた。《魂のスープ》が血管を通じて全身に染みわたり、先ほどの打撃で折れた肋骨の痛みを麻痺させてくれる。他の痛みも――ささくれだった心の|疵《きず》も――なにもかもだ。
『明る……前向きで……明るく……』
 《|獣《けもの》》が、よろめきながら立ち上がる。今やその脚は13本にまで増えていた。抵抗反応だ。一度《《解き放たれて》》しまった人間は、外界からの刺激に対して自動的に肉体と精神を再構築させ続ける。生命の|軛《くびき》は、あまりにも強い。望むと望まざるとに関わらず。
 再生した脚の全てを使って、《マクローリン|獣《けもの》》が飛び掛かってくる。
『明るく前向きであれ!!』
 無抵抗のまま彼女は《|獣《けもの》》の突進を受け、ビルの外壁に叩き付けられた。《|獣《けもの》》が腕の2、3本を使って彼女の首を締め上げる。だが思いのほか力が萎えていたことに気付いてか、さらに4本の腕を動員する。彼女は腰の短刀を抜いて反撃に転じようとしたが、即座に腕を捩じ上げられ、武器を取り落とした。
『明るく前向きであれ……常に明るくプラス思考……!』
「そうか。それがあんたの《鍵》だったんだな。
 |黄馬軟件公司《ハンマーソフト・コープ》インフェム・エンジニア、角田|明軒《ミンスァン》……」
 《|獣《けもの》》の動きが、止まった。
「強要のための強要。自己目的化した支配。繰り返される無益な階級確認作業。そんなものに判断力も尊厳も奪われて。他の誰かに同じ辛さを押し付けることでしか、自分自身を保てなかった。
 そんなとこだろ。違うのかい……」
 いつのまにか、《マクローリン|獣《けもの》》が、泣いていた。
 鰐口の頭にへばりついた目玉から、大粒の涙が零れ落ちた。背中には新たに3つの頭が生まれていたが、それぞれにひとつずつの目が赤く腫れあがり、泉のように濡れていた。
 角田|明軒《ミンスァン》が、というのはつまり、こんな化け物になる以前の彼が、会社でどんな扱いを受けていたか、知るすべはもはやない。彼はもう、《《解き放たれて》》しまった。
 だが、分からないはずがあろうか。
 この泣きぬれた異形の顔を見れば。|戦慄《わなな》きながらも首を絞めることを止められないこの腕を見れば。嘆き、呻き、苦しみながら、それでも死ねずに生きることしかできないこの姿を見れば。
 それでも|騎士《ナイト》は――いや《《狩人》》は、《|獣《けもの》》を正面から睨めつけるのだ。
「ナメるなよ……」
 |獣《けもの》の腕でを力任せに掴んで捩じ上げ、
「甘ったれてんじゃねえぞ|糞餓鬼《クソガキ》が!!」
 氷のごとく刃が奔る。
 《|獣《けもの》》の腕が斬り落とされる。脚が裂け、腹が断たれ、尾と脊椎とが圧し折られる。跳び回り、暴れ狂い、血の華を絶え間なく咲かす狩人の姿は、さながら吹き荒れる竜巻のよう。もはや全身が血赤に染まり、それでも再生を辞められぬ《|獣《けもの》》の背に飛び乗って、狩人は《|竜火液《スピッター》》の|薬剤瓶《アンプル》を投げ落とす。
 上から突き立てられた大刀の切っ先が瓶を貫き、そのまま《|獣《けもの》》の体内に薬液を捩じ込んだ。ほどなく、白い閃光が傷口から迸り――

 二度目の爆発が、最下層の暗がりを一瞬、染めた。

 K.K.が外に駆け出してきたのは、この時だった。ことの成り行きを確かめずにはいられなくなり、《お喋り車》の制止を振り切って来たのだ。そして彼女は見た。もはや溶けた肉片と成り果て、それでも死に切れずに蠢き続ける《マクローリン|獣《けもの》》と――その傍らに呆然と立ち尽くす、傷つき疲れ果てた女の姿を。
 そこへ車が追いついてきて、ヘッドライトの光量を落とした。さながらそれは、傷ついた相棒の不器用な生き方を哀しみ愛おしむ、友愛の眼差しのようだ。
〔また無茶をして。|黒霧《クロム》さん……あなたって人は〕
 |黒霧《クロム》――|黒霧《クロム》タカセ。
 以前どこかで耳にしたことがある。|最下層《ロウアモースト》に巣食う《異脳》の天敵。これまでに狩り殺した獣は千を数え、絶え間なく血に濡れ、血を悦びとする狂気の女狩人。人呼んで、《ド・ブロイの異脳狩人》――
「あの……狩人さん。私……」
「《枝》の刃は手折られた」
 K.K.が声をかけると、|黒霧《クロム》は謳うようにそう呟き、その場にしゃがみ込んだ。《マクローリン|獣《けもの》》の肉片を弄り、その中から棒状のものを拾い上げる。
 それを見た途端、K.K.の背筋に悪寒が走った。なんだろう、あの棒は。骨にも剣にも枝にも見える。《異脳》の身体の一部だろうか。見たことがないものだ。なのにK.K.は確信していた。
 《《知っている》》。あれは《《在ってはならないものだ》》。
 無意識にK.K.が後退った――そのとき。
 恐怖を覚えることさえ許さず、狩人がK.K.に滑り寄った。《獣》と対峙するときに見せた、肉食獣を思わせるあの素早さでだ。K.K.が目を見開く。狩人の目が《《獲物》》を捉える。その荒れた唇が、不気味な呪詛を唱えている。
「王に死を。
 |去《い》にし|辺《え》より来て|往《ゆ》く|末《すえ》へ。
 明日の明日のその先までも、絶えることなく王に死を」
 次の瞬間、《枝》が彼女の|心臓《なか》を挿し貫いていた。
 途端、血という血がK.K.の中で破裂した。熱は滾り身体を巡り、恐怖は狂気の奔流と化して臓物の裡を逆流し、次いで痛みがやって来た。死さえがまもなく訪れた――痛みが急速に薄れ、意識が暗闇に落ちていく。まるで疲れ果てた寝床で安らかな眠りにつくようにK.K.は死にゆき、死体なりの賢明さで最期の光景を瞼に焼き付けようと努めた。
 狩人の目がこちらを見ている。ミラーグラスにその正体を晦ましたまま。その一瞬、K.K.は確かに見た気がした。ミラーグラスの下から細く――《|単分子鞭《ダンシング・ソード》》の糸よりも細く、一筋の涙が零れているのを。
「受け入れろ」
 狩人が押し殺した声で告げる。
「それがあたしたちの生き方なんだ」

 それを聞くや、正体不明の怒りが湧きあがり、K.K.は猛獣めいて牙を剥きだし、狩人に咬みつかんと伸び上がった。だが朽ちかけた身体にその力はすでになく――彼女は、倒れた。
 それが、K.K.の最期だった。


  *


 《|廣汎化《ユニヴァリゼイション》》の波が全地球を飲みこんで、もう半世紀になる。人類の進化と社会組織の理想化を謳った叡智の播種は、結局のところ、新世代の|汚穢《おわい》という果実のみを後に遺した。
 テクノロジィが創ってしまった、ヒトにしてヒトならざるもの。
 ヒトの中の怪物性の解放。現代に潜む邪悪の化身。あらゆる神話と魔法が遠い過去のものとなった時代に、突如具現化したファンタジィの住人たち。

 《異脳》。

 《《それ》》は誰にでも潜んでいる。
 欲望、不合理、自分さえ良ければ他のものなど知ったことかというきもち。
 その他もろもろの悪徳が、ヒトをヒトの殻から解き放つ。

 つまり――あらゆる街角にモンスターが棲んでいる時代がやってきた、っていうことだ。



 時は、AE56年。
 天は“王朝”に支配され、地には《異脳》どもが溢れ、凡人たちは絶望の中、辛うじて生にしがみついていた。

 そんな混迷の時代に、どこからともなく湧き出した戦士がいた。
 称賛も受けず、寄る辺さえ持たず、銃と、カタナと、安売りの命とを武器にして、《異脳》を闇から引きずり出しては、ただひたすらに屠りつづける、返り血に汚れた狂気の狩人。
 人は彼女をこう呼ぶ。

 ――《ド・ブロイの異脳狩人》と。



※このあとが前回更新記事のサブタイトル以下に続きます。

ド・ブロイの異脳狩人/Take1 1

 

「枝の刃は手折られた」
 狩人の目がK.K.を捉え、
「王に死を。去にし辺より来て往く末へ。明日の明日のその先までも。絶えることなく王に死を」
 《枝》が彼女の|心臓《なか》を貫いた。
 途端、血という血がK.K.の中で破裂した。熱は滾り身体を巡り、恐怖は狂気の奔流と化して臓物の裡を逆流し、次いで痛みがやって来た。死さえがまもなく訪れた――痛みが急速に薄れ、意識が暗闇に落ちていく。まるで疲れ果てた寝床で安らかな眠りにつくようにK.K.は死にゆき、死体なりの賢明さで最期の光景を瞼に焼き付けようと努めた。
狩人の目がこちらを見ている。ミラーグラスにその正体を晦ましたまま。
「受け入れろ」
 彼女が押し殺した声で告げる。
「それがあたしたちの生き方なんだ」

 それを聞くなり正体不明の怒りが湧きあがり、K.K.は猛獣めいて牙を剥きだし、狩人に咬みつかんと伸び上がり――力尽きて、倒れた。
それがK.K.の最期だった。

 

01 悪徳の積層都市(キュムレイティヴ・レイヤー)

 K.K.は汗だくで跳ね起き、全裸で寝具に包まれていた己を見出した。
 耳鳴りが奇妙な心地よさで静寂の中に響き、窓から差す暖かな恒常灯が白く埃を浮かび上がらせている。息をするのも忘れ、夢と現実の違いも判らず、K.K.は、指先で自分の乳房に触れた。肉の感触。やわらかい。確かにそこに在る生命という、圧倒的存在感。何もかも夢だったのだ――ようやくその《《結論》》に至り、K.K.は胸の中でスタックしていた呼気を、堰をきったかのように吐き出した。
 ノックの音がして、|楢《オーク》の扉越しに、じいやの声が聞こえてくる。
「K.K.? たいへんなうなされようでしたが?」
「殺された夢を見た。怖かった。でも、裸なので入ってこないように」
 じいやが扉一枚の向こうで唸っている。思えば裸だなんて余計な情報を与える必要なかった。つい、思っていることが口に出る。
 K.K.は手早く着替えて寝室を出た。
胸元に赤いリボンをあしらった紺の制服。黒のソックスに、縁取りがかわいい革靴。まっすぐな黒髪は無造作に垂らして、流水めいた髪留めで前髪を押さえる。ピンと伸びた背筋はさながら細身の短剣。よく尖り、よく切れ、よく冷えている。
廊下で待ち構えていた爺やと顔を合わすなり、K.K.は彼の戸惑い顔をひたりと見据えて繰り返した。
「怖かった」
「もう安心でございます」
「怖かった」
「夢は終わりました。おいしい朝食もこしらえてあります」
「怖かったの」
「そうでしょうとも。そうでしょうとも」
「お前はいつも私のほしいものをくれるから好きだ」
 だが、じいやは顔を曇らせる。
「いいえ。わたくしどものほうが、あなたから頂いているのです。全てのものか――あるいは少なくとも、きわめて多くのものを。K.K.、|王《カイゼリン》にして|神《ケーニギン》たる方よ」


K.K.が|王神《K.K.》になったのは、もう12年も前のことだ。幼かった彼女は、先代の王神であった母の跡を継ぎ、わけもわからぬままに世界の支配者となった。
 だからといって何かが余人と異なるわけではない。食事もすれば排泄もする。風邪も引けば怪我もする。背も伸び、ニキビに悩み、胸も膨らんで、控えめながら自慢できる軟らかさになり、月に一度の不愉快も味わう。赤い血の流れた人間だ。
 とはいえ、賢明な彼女は、自分がいかに優遇されているかということには、はっきりと気付いていた。
 佐藤さんの運転で屋敷の門を出、|積層都市構造物群《レイヤード》|第一層《プライマリ》を一望に見渡せる坂道に出る。天井で爽やかな青光を放つ《恒常灯》を浴びて、きらめく緻密な街並みは壮大なモザイク画のよう。学校へ向かう道すがら、何人もの徒歩や自転車のクラスメイトを追い抜く。彼ら/彼女らの視線が、白の高級車の背後に注がれているのが分かる。
尊重と憧れ。少なからぬやっかみと敵意。ただ生きているだけで他人に何らかの感情を抱かせずにはいられない、フラットには生きられない自分の立場を、K.K.はよく把握している。
 だが、一体この世の誰が、社会の目から自由に生きられるというのだろう? いかにして、自分に向けられたバイアスから
逃れられるというのだろう?
 緩やかにカーブを描くコンクリートの道を、小川のような穏やかさで下り、校門の前で車は止まった。佐藤さんがドアを開けてエスコートしてくれる。そんなことしなくても自分でドアくらい開けるのに。率直にそう訴えたことも一度や二度ではないが、もうK.K.は諦めている。
世界が、彼女に|王神《K.K.》としての振る舞いを求めている。彼女は女優。社会という大舞台で、世界から任命された役を演じる、この人生の主演女優だ。
 なら|演《や》りきってみせようじゃないか。

女狩人は王を狩る(仮題) 試し読み1

 ケイと初めて出会ったのは、|仁清路《レンチィンル》沿いのゲーム・アーケイド前でのことだった。その時の|黒霧《クロム》はまだ11歳の小娘に過ぎず、力も知恵もないばかりか《疫病ネズミ》のように汚れていて、《恒常灯》の落とされた暗い裏通りに全く似合いの《《小道具》》だった。
 そう、登場人物ですらない。ちっぽけな万引常習犯――つい先刻、疎らに再利用品が並ぶだけのストアから、腐りかけた|蛋白質《ペプチド》キューブを盗み取り、目の窪んだ骸骨のような店主に追い回され、棒で打たれ、|強姦《レイプ》されかかり、手近なコンクリート片で店主の眼球を叩き潰して逃げてきた。こんな事件、珍しくもない。握りしめた石くれと同程度にありふれた彼女は、台詞はおろか役名すら持たない、舞台の隅でちょっとした雰囲気出しに貢献するだけの、取るに足らない舞台装置なのだ。
 だが、《《そいつ》》は違っていた。
 |黒霧《クロム》が疲れ果て、塵山の隙間に尻をねじ込んで喘いでいると、不意に《《あいつ》》が現れた。妖精めいた軽やかなステップ。天使の翼を思わせる金色の美髪。アーケイドの中から漏れ出す“魔術師城戦車戦”画面のライム|光《ライト》が《《彼女》》の横顔を暗闇の中に浮かび上がらせる。
 |黒霧《クロム》は息をすることさえ忘れた。《《そのひと》》は、ただ美しいというだけじゃない。《《何者かである者》》だけが持ち得る恐るべき煌めきを、直視さえ拒む眩さで|黒霧《クロム》の目に焼き付けようとしているのだった。
 《《ケイ》》がこちらを向いた。|黒霧《クロム》は我に返る。煌めきはいつの間にか見えなくなっていた。理性が感性を錆びつかせたのだ。相手も自分と同じ年頃のガキに過ぎない、と怖気づいた己を奮い立たせ、また裏通りの小道具たる自分のありようを思い出して、文字通り牙を剥き出してみせた。
「なに見てやがる」
 ケイは瞬きすらしない。|黒霧《クロム》の胸に正体不明の怒りが湧き起こる。
「|手前《てめえ》からも奪ってやろうか!」
 するとケイは――あの腹の立つ女は、自身の薄い胸に手のひらを当て、大真面目な顔をしてこう返したのだ。
「――わたしの|心《ハート》でよければ」
 ――ときめいてしまった。なんたる不覚。
 これはひどい不意打ちだ。
 ひとときの沈黙の後、|黒霧《クロム》は壊れたタンクから水が溢れ出すようにして笑いだした。一緒になってケイも笑う。笑い、笑って、どこかから騒音に怒った酔いどれの罵声が聞こえ、それがおかしくてまた笑った。笑い終えて|黒霧《クロム》は尋ねた。そうするのが自然だと思えたからだ。
「なんなんだ、お前?」
「ケイ。|最下層《ロウアモースト》の花売り。あなたは?」
「|黒霧《クロム》タカセ。仕事は、いろいろ」
 ケイが手を差し伸べてきた。|黒霧《クロム》は無意識にそれを掴み、掴んた自分に驚き、助け起こしてもらい、何か返さねばならないと思いついて、盗ってきたばかりのキューブを半分渡した。ふたりして口に放り込み、ひと噛みして口を揃えることには、
『まずい』
 顔を見合わせ、また笑う。
 今でも鮮明に覚えてる――出会いは、そんなふうだったのだ。


続く

プロットの例

「最後の戦い」プロットの例


剣士がさびしい一人暮らしの中で死にかかっていた
病に倒れたのだ

長くはもつまい
今日か、明日か……

ああ、俺の人生は何だったのだ?
剣の腕をひたすら磨き
しかし報われることもなく
名を為すこともできずに死んでいく
俺の一生は、全く無駄なものだった……

やめよう。
考えても詮無きこと。
いまはただ、心残りなく逝こう……

いや
あった!
ひとつだけ、心残りが
あの女 緋女
類まれなる剣士

闘いたい。あの女と
一介の剣士として、全身全霊
己のすべてを込めて

病床から起き上がり、杖をつきながらヴィッシュの家を目指す


剣士の過去について回想

幼い頃から運動の得意な子だった
あるとき、ふらりと村に現れた騎士に見込まれ
侍従となり、剣の手ほどきを受けた
その騎士は達人だったのだ
めきめきと力をつけ
騎士の取り立てで国軍に入った

魔王軍とも戦った
しかし剣の道ひとすじで
人付き合いの悪い彼は、軍の中で嫌われ
ついに退官してしまった

そして後始末人になった
己の剣を一回いくらで売る商売


要領悪くて稼げない



ヴィッシュの家に来たが、あいにくどこそこ村に行っていて不在
ということを、隣のおせっかいおばちゃんから聞く

明日には戻るだろうけど

明日までこの体がもつかどうか……

自分から出向こうと決意する


その村は、第二ベンズバレンの西にあり
徒歩で一日ほどの距離


途中、疲れて動けなくなったり

魔物に出会ったり、

悪い奴に絡まれたりする

その苦難を乗り越え
人々の親切を受けて
しかし、ここに留まっていなさいという好意は袖にして
彼はひたすら歩く
ふらつきながら、杖をつきながら、
しかし止むことなく

夕暮れ時
ついに緋女の元へたどり着いた時には、
満身創痍。死にかかっていた。

ヴィッシュたちは仕事を終えて、戻ってくる途中で剣士に出くわしたのだ


「あれ、お前は」
ヴィッシュが気付く。
「どうしたんだ、こんなところで」

「緋女殿! 真剣勝負を所望する!」
迫力の声

「馬鹿言うな、お前、体が……」
手を差し出してヴィッシュを止める緋女

「いいよ」
「来い」



激しい戦い
緋女さえ怯ませる

ゾッとするヴィッシュとカジュ
まさか、緋女が……苦戦している!?

日が沈む

だが、最後は緋女が勝つ
倒れる剣士
緋女、膝枕をしてやる
日も沈み、薄暮に包まれた穏やかな景色の中で、二人の姿だけが、いやに際立って見えた
さながら教会の壁を飾る、宗教画のように
「楽しかった」「お前、強かったよ」
言葉もなく、息絶える剣士
しかしその死に顔には、にこりと、暖かな笑みが浮かんでいた

彼の生涯で一度足りとも浮かべた試しのない、心からの笑顔であった


おわり